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イエスの姿が変わり

受難節第4主日礼拝

説 教 「イエスの姿が変わり」 岸敬雄牧師

               聖 書  詩編27編7~14節 マルコによる福音書9章2~10節

 マルコによる福音書9章2節の初めに、六日の後とありますが、この様に時期について記述されているのは、この場所以外は受難物語に出て来るだけです。

 あえて六日後と言っているのは、出エジプト記の24章15節にあるモーセが山に登っていった時、山を六日間雲が覆い、七日目に主が雲の中からモーセに声を掛けられたことに関連しているのではないかと言う認識を持っている人もいます。天からのおとずれが、十戒が神の指によって書かれた様子と想起されていると言うことでしょうか。

 聖書に書かれている六日まえにどのような出来事から言えば、イエス様がフィリポ・カイサリア地方の村々にお出かけになった際に、イエス様のことを人々がどの様に言って弟子たちに尋ね、弟子たちは、洗礼者ヨハネだとか、エリヤだ、預言者の一人だと人々は言っていると言ったのでした。そして、弟子たち自身はどう思っているのかと聞いた時、ペトロが「あなたは、メシアです。」と信仰を告白したのでした。

 それに対してイエス様は、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた後に、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と初めて、ご自分の受難について語られたのでした。それに対して、その様な事があってはならないと言さめたペトロに対して、叱って「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言われたのでした。その様な出来事があった後の六日の後になります。

 つまり、イエス様のことを救い主であると弟子たちは認識して、イエス様もその救いの業について、自分が苦しみを受けた後に殺される。しかしその3日後に復活させられる出来事が重要であり、それは必ず起こる事であることを、弟子たちにしらせた後、六日後の出来事だと言うのです。

 そして、さらに弟子たちに新たな証しが、与えられることとなるのです。しかし、この山上でのイエス様の変貌の出来事の証人は、今までの様に弟子たちや多くの人々に与えられたのではなく、弟子の中でも特別の弟子、それも使徒と呼ばれる12人の特別の弟子たちの中で、さらに3人だけが選ばれたのでした。

 それは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人でした。ペトロは、その前にイエス様からサタンと叱責を受けていましたが、この三人はイエス様が最初に弟子としてお招きになり、その時、すべてを捨ててイエス様にすぐに従ってきた弟子たちです。言ってみれば、宣教を始められたイエス様に最初からつき従って、一番身近でイエス様のことを良く知っていた三人で、弟子の中でもリーダーであったことは確かでしょう。

 ペトロにしても、イエス様をいさめたのは、自分の為ではなくイエス様のことを思って、十字架に掛り殺される様な受難は、あってはならない事だと思いいさめたのでした。しかし、その思いが神様の思いとは異なる見当はずれのものとなってしまっていたのも確かな事であり、その為にイエス様から叱責を受けることとなってしまったのですが。

 そんな、三人の弟子とイエス様が高い山に登っていくと、すると弟子の目の前でイエス様の姿は変わり、服が真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなったのでした。

 ここで変わりと訳されているギリシャ語は他の箇所としては、マタイによる福音書の並行箇所である17章2節で使用されているだけで、あとは、変化形が違うのが手紙で2ヵ所出て来るだけの特別な単語で、神が人に、あるいは人が神々の姿に変わる時に用いられた単語なのです。ここですでに、弟子たちの前でイエス様は神的な存在であることを表しているのです。

 「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬ」と言うのも、人の限界を超越した存在とし、そこにいることを表し、さらに、白く輝いている様子は天使の衣装を想起させ、これも地上のではなく、天上との繋がりを表現していると考えられます。そして、イエス様の姿が変わられた所にエリヤがモーセと共に現れて、イエス様と語り合っていたと言うのであります。

 エリヤは死ぬことなく天に上げられた人物とされ、終末時の始まる前に現われると考えられており、モーセもその死後、その墓はどこにあるのか誰にもわからなかったと言われており、エリヤの同伴者としては相応しい人であると考えられたのでありましょう。

 イエス様とエリヤとモーセがどの様な話をしていたのか具体的にどの様な内容を語っていたかについては、マルコによる福音書には語られていませんが、ルカによる福音書の並行箇所の、9章31節では「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」と書かれています。

 その様に、イエス様とエリヤとモーセが語りあっているとペトロが口をはさんだのでした。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と、ただこの発言もペトロはどう言えばよいのか分からなかった結果なのです。

 『すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」』という声を聞いたのでした。

 天から声が聞こえてきて「これはわたしの愛する子。」とイエス様を天父なる神が承認なさる声が掛けられたのは、イエス様が洗礼を受けられた時に次いで2回目となります。まさに天から直接イエス様のことを承認する声を聴いた事に成ります。

 そして、これはイエス様ご自身が復活されるまで秘密にするようにと弟子たちには言い渡されたのでした。

 イエス様のことを弟子たちですら全ては理解できなかったが、それでも従い続けて行ったのです。私たちも全てを理解したから従って行くのではなく、弟子たちの様な愚かのところがあろうとも従って行くことが大切なのであり、欠けある私たちのことを知っていてくださる主は私たちに合わせて導いて下さるのです。

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