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キリストは死を滅ぼし

受難節第3主日礼拝 3月20日(日)

説 教 「キリストは死を滅ぼし」 岸敬雄牧師

         聖 書  イザヤ書48章1~8節 テモテへの手紙二1章7~14節

説 教 「キリストは死を滅ぼし」 岸敬雄牧師

 パウロは、テモテが抱いていた純粋な信仰を思い起こして、神の賜物を、再び燃え立たせるように勧めるために「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださった」と言っています。だからこそ、「わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。」と言うのです。

 神様は私たちに対して、霊を与えて下さっています。その代表的な霊といえば、三位一体の神の御一方である聖霊なる神でありましょう。

 聖書の中には、それ以外に色々な霊が出てきます。その中には神様から出た霊ではなく、私たちに悪い影響を与える悪霊と呼ばれるような例もあります。逆に神様がわたしたちに与えて下さる霊の共通の特徴としては、私たちにとって良い働きをもたらしてくれるものであると言えるでしょう。

 その様な、神様から与えられている霊について、本日のテモテへの手紙二では、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をくださったと言っているのです。だからこそ、「わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません」と言うのです。

 私たちの主、と言う言い方をわざわざ言っているのかと言えば、この世の中には色々なものを主、すなわち主(あるじ)とするものが多数あることを承知していたからです。

 例えば、自分の雇い主や自国を統治している王、それ以外にも、他の宗教の神など、色々なものが主の中においては主であると認識されているかもしれない、しかし、私たちの主、すなわち、わたしたちが共通に主としているお方は、天父の独り子である主イエス・キリスト御一方だけである。

 おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をうけることによって、「イエス・キリストを証しすることを恥じとはしないし、そして、わたしが主の囚人であることも恥じては成らない」と言うのです。

 神様から与えられた力と愛と思慮分別があるからこそ、「イエス・キリストを証しすることを恥じとはしない」ことができるのであり、主のために囚人となっていることも恥としないと言っているのです。わたしが主の囚人であるとは、この手紙を書いている時点においてパウロは実際に囚人であったろうと言われます。

 パウロは、法的、慣習的には皇帝の囚人だったかも知れません、しかし、本当の意味としては、イエス・キリストが自分の目的のために現在、パウロを囚人という立場に置いているのであり、囚人と言う迫害され、投獄されている中においても福音を伝えることが出来ていることから、主のための囚人、自分は主の囚人だと言っているのです。そして、主の目的のためであるならば、囚人と言う立場も決して恥とはしないと言っているのです。

 そして「むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。」とパウロは自分と共に耐え忍ぶようにと頼んでいるのです。

 パウロと言えば、とかく気性が強く自分が正しいと考えることなら先輩の使徒であるペトロに対してもきっぱりと間違っていると言えるような性格であり、強いイメージがありますが、決して一人で耐えて行けるわけではなく、神の力に支えられているとは言え、決して一人で耐え忍んで行けるわけではなく、共に耐え忍ぶ相手を必要としていたことをうかがえるのです。

 そして、パウロは私たちが救われる、神の計画に対して「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。」と、ここでも、救いは神の恵みが先にあって、その神様のご計画に沿って私たちに聖なる招きが与えられたことをもでています。その結果として、神様の救いが与えられたのです。

 私たちも教会へと呼び集められているのも、神様による御計画によるのであり、この恵みは何時から存在するのかと言えば、それは「永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ」だと言うのです。

 永遠の以前より、すなわち私たちの歴史が始まる以前から主イエス・キリストにおいて既に存在し、私たちに与えられたのだと言うのです。

 その表れとして「今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」と言っているのです。

 それが姿を現したのは、この地上にイエス・キリストが姿を現された時であり、それはどの様な形であるかと言えば死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現わすと言う形で、姿を現して下さったのです。

 さらに福音のために宣教師や使徒や教師と言う指導者として任命されたと言うのです。その為に私は苦しみを受けているのですが、それを恥じとしないと言い再び恥としないと言うのです。なぜかと言えば「自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」と言い、かの日、すなわち私たちが救われる終わりに日まで守られ続ける確信があると言い切ります。

 さらに、「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」と言うのです。

 キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。手本とするものは、パウロが教えた言葉であり、その原動力となるのは主イエス・キリストの与えてくれた愛であり、信仰だと言うのです。それを私たちの中におられる聖霊によって守るようにと言っているのです。

 私たちには聖霊なる神が与えられて多り、神の愛に支えられて、信仰を強められているのです。そして、終わりの日まで守られて行くのです。

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