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憐れみ豊かな神

受難節第2主日礼拝 

説 教 「憐れみ豊かな神」 岸敬雄牧師

聖 書  詩編18編2~7節  エフェソの信徒への手紙2章1~13節

  詩編18編2~7節は、ダビデが、サウルをはじめとした全ての敵から救われた時の詩だとされています。敵の手から救ってくださる主を慕い、主はわたしの神、わたしの岩、それも大岩、さらに避けどころ、砦、それも砦の塔、さらに、わたしの盾、救いの角だと多くのものに譬えで、その信頼の強さ、そして信頼に足る力強さを言い表しています。

 ダビデは苦難の状況として、死の縄がからみつき、奈落の激流がわたしをおののかせ、 陰府の縄がめぐり、死の網が仕掛けられていると述べて苦難の多さ、時に死の苦難に対する様子を語り、その様な苦難の中からわたしの神である主に向かって叫び求めると、聞き届けて下さると言うのです。

 ここでは、救いの代表的な表現として、死や死後に行くと信じられていた陰府からの救いも語られているのです。死は私たちの避けがたい苦悩として、そして恐れとしてとらえられて、さらに死後に行くべき所としての陰府、陰府とは、使徒信条でもイエス様が死後に陰府に降られたと言われているように、死後に行くところの一つと考えられており、神のもとに行くか、地獄に行くか決定するまでの中間地点のようなものと考えられていたのでした。イエス様は陰府にまで下り福音を伝えてくださり、救われるべき人を救って下さる道筋をつけて下さったと信じたのです。その様な、陰府からの救いの信仰は、この詩編が読まれた頃からもうすでにあったことを示しているのでありましょう。だからこそ、併せて語られているのです。

 そして、この詩の作者とされているダビデが「わたしはあなたを慕う。」と言って、神様が慕い、神様が行って下さる恵みの業に対する感謝と信頼を歌あげているのです。人は神を慕うことによって救われるのである。ダビデの様な人々の上に立つ王として、力も信頼も受けたとしても、人の力では救われることはできない。神の力を慕い、より頼みことこそが必要なのであります。

 本日の新約聖書、エフェソの信徒への手紙2章においても、死から救ってくださった、救いの業について書かれています。ただし、エフェソの信徒への手紙で語られている死とは、旧約聖書の詩編で言われていたような肉体の死だけではなく、過ちや罪によって神様との関係が崩れた状態にあることも死んでいた状態ととらえて、死という概念を広げてとらえています。

 あなたがたは、以前は過ちと罪のために死んでいたのだと言います。どのような過ちと罪かと言えば、主に従うのではなく世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従っていたのです。

 そして、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者で、さらに、「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた」と言っています。

 ここで、この手紙の対象者が以前は異邦人と呼ばれていた人々であり、割礼を受けていなかった人々であることが分かります。ここにおられる皆様は、それぞれの人生を歩まれてこられましたので、クリスチャンが少ない日本の中においては、以前は異邦人であり、神様とかかわりを持たずに、生まれながら神様に怒りを受けるべきものであったと、自覚される方もいらっしゃるのではないでしょうか。さらに、中には肉や心の欲するままに生活するような経験はしておられないかともいらっしゃるかも知れません。

 そのような、神を知らないで暮らしていたような者が、「以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となった」というのです。あの十字架の上で流されたイエス・キリストの血によって神様は私たちに近い者となってくださったのです。

 イエス・キリストは私たちのために、わたしたちの罪を贖うために十字架の上で血を流して下さり、私たちは、その十字架上でイエス・キリストが流して下さった血によって、罪を洗い流されて罪無いものとされ、清いものと神様から見ていただくことが出来る者としていただけたのです。

 それはまさに全て神様の恵みであると言い、罪なき者として見ていただくことが出来るようになった私たちに対して、憐れみ豊かな神様は、私たちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 罪のために死んでいた私たちを、キリストと共に生かしくださることによって、救って下さったのです。

 この世の中で希望を持たず、神様を知らずに生きていた私たちを、イエス・キリストによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださって、「こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」と言って、この恵みは決してこの世ばかりの恵みではないことを示しています。

 だからこそ、お一人のイエス・キリストが全人類全ての人々に対する救い主となりえるのです。イエス様を信じることを赦されるものは、何時の時代に生きていた人であろうとも関係なく救いにあずかることが出来る、ただ誰がその恵みにあずかれるかは神様の恵みの業によるのではありますが。

 この恵みは現世ばかりではなく来るべき世においても有効なことを現わすために、私たちのいる場所は、陰府ではなくイエス・キリストと共に天の王座に着かせくださると言っているのです。その為にイエス様によって、私たちも共に復活させていただけるのだと言っているのです。

 そして、私たちが救われたのは、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」と言い切るのです。救われましたと過去形で言い切り、さらに救いは、私たちの行いによるものでは無い事を重ねて言っています。

 そして、この神の賜物にあずかれることは、誰に対して誇れると言う様なものでは無いと言い、どうして私たちが誇ることができないのかと言えば、それは、神様が前もって準備しておいてくださったイエス・キリストにおいて造られた善い業だと言い、わたしたちは、その善い業を行って歩むのだと言うのです。

 この善い業は、憐れみ豊かな神様より与えられたものではありますが、私たちは、信仰を通してこの良い業に参画していくのです。もはや私たちは与えられるだけの者では無く、神の御業に参画していく者とされているのです。

 

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