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栄光へと導く

受難節第1主日礼拝  

説 教 「栄光へと導く」 岸敬雄牧師

聖 書  エレミヤ書31章27~34節  ヘブライ人への手紙 2章5~16節

 

 レント(受難節)に入りました。レント(受難節)に入るりイエス様のご受難について共に考え、自分の信仰を新たに見直して、イエス様の苦難を思い返して感謝しつつ過ごして行く時期となります。

 本日のエレミヤ書31章において、新しい契約を結ぶ日が来ると言われています。この契約はモーセに引き連れられてエジプトを出てきた時どわ違う契約であり、新しい契約を結ばれる時には人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからだと言うのです。まさにそのような来るべき日が来ることを待ちわびています。しかし残念ながら小さい者も大きい者も主を知る日はまだ訪れていません。しかしその先駆けはもう訪れているのであり、それはまさに私たちが主を知るようにと教会へと呼び集められていることが何よりの証拠と成るのです。

 

 本日は先週に引き続きヘブライ人への手紙 2章から御言葉から聞いて行きますが、ヘブライ人への手紙 2章にも訪れたが未だに完成されていない出来事について語られています。

 ところで、ヘブライ人への手紙というこの書の名前について、とどまって考えてみると少し不思議な思いがします。聖書の中には、どこかの信徒への手紙とか、テモテやテトスの様な個人の名前の書はありますが、ヘブライ人へというような、なになに人へと言う書は他には見受けられません。

 それもユダヤ人とかサマリア人へというイエス様の時代の人々の呼び方と言うよりも、もっと古く、自分たちイスラエルの民族の先祖であるアブラハムや旧約聖書の預言者であるヨナが名乗っていたヘブライ人と言う名前の人々へ手紙を出しているのです。

 ある程度、この手紙は受け取る人々は限定して書かれている様ではありますが、具体的にどこの誰に向けて書かれているのかを示す内容は見受けることができません。

 そんな不思議な手紙の中において、本日の2章8節以下では詩編の8章からの引用で「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。」と言っています。誰に心に留められるのかと言えば、それは主に覚えられている人間のことを指しているのは間違いないでしょう。

 そして、ここで語られている人間とは同胞としてのユダヤ人と言うよりも、より大きな意味の人間について語っているのであり、全ての人間の中で神様から心を留められている人とは、何者のことであるかと言うのであり、それと共に「あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか」と今度はあなたと、つまり主が顧みられる人の子と何者かと、集団の心を留められている人と個としての人の子を対比して語っています。

 人の子はもちろん、主イエス・キリストに対しての別の呼び名の一つであることは、みな様もご存じのことだと思い間が、その人の子について「あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。」と言うのです。彼、すなわちイエス・キリストを天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたとは、天使たちよりも低い者すなわち、私たち人間と同じものとなられたと言っているのであり、イエス様はわずかの間、私たちと等しい完全な人間の姿を取られた、そして、イエス様は、私たち同様に血と肉を備えられ、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし足の下にしたがせられたのです。そして、すべての者を足の下に従わせられたと言うのです。

 そして、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるために、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のであり、もっと言うならば、死より復活されることにより、ご自分が栄光と栄誉を受けられ、その栄光と栄誉の冠を私たちに対しても授けてくださる。その栄誉の冠とは復活の恵みであり、それをご自分を信じる者にお与えて下さるのだと言うのであり、そして、今は天父の右に座しておられるのです。

 そして、すべてのものをその足の下に従わせられたのは、決して自分が高みに立つことを示すためと言うのではなく、それは「多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったから」だと言うのであり、私たちを導くためだったのです。

 イエス・キリストは、神様から心を留められている人を栄光へと導いて下さるお方であり、そのために苦しみを通して完全なものとなられたため、私たちの苦しみや痛みを知っていてくださっているのであり、それは、まさに相応しい事であったと言うのです。

 そして、イエス様は、彼ら、すなわち信じ救われる人々をイザヤ書や詩編のことばから引用して兄弟と呼ぶことを恥としないで、「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と言い、また、「わたしは神に信頼します」とも言い、更にまた、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われています。

 「確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。」と本書の作者は言うのです。

イエス様が助けて下さるのは、神の創造物であるもの全てではなく、天使ではなくアブラハムの子孫、神様と契約を結んだ、言い換えるならば神様に従って救いにあずかることを約束した人間を助けて下さるのだと言っているのです。この救いはまだ完成していませんが確かに始まっているのです。なぜなら私たちが教会へと呼び寄せて下さり、救いの片鱗を私たちは味あわせていただいているからです。

 私たちも、アブラハムを神様が呼び出されて選ばれたのに連なるものであることは確かな事であり、この救いの約束にあずかり、栄光へと導く者なのです。そのことをしっかりと理解して歩んでまいりましょう。

 

 

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