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注意を払う

降誕節第10主日礼拝 

説 教 「注意を払う」 岸敬雄牧師

聖 書  詩編 125編1~5節 ヘブライ人の手紙 2章1~4節

 

 詩編125編の作者は、主に依り頼む人をシオンの山にたとえています。揺らぐことなく、とこしえに座ると言い、安定していてまさにゆるぎないものとして描き出しています。

 そして、エスサレムは、まさにそのような揺るぐことのない物の代表である山々に囲まれていて、その山々を神様の守りのようだと思い返しているのです。だからこそ、「主は御自分の民を囲んでいてくださる」と言い、主に対するゆるぎない信頼を持つ者と、その信頼に対する主の確かな守りと祝福が語られているのです。

 それに反して、よこしまな自分の道にそれて行く者、悪を行う者と共に追い払う様にと願っています。よこしまな自分の道にそれて行く者に対しては、悪を行う者と共に追い払う様にと願っています。

 さらに、主に従う人に割り当てられた地に対して、主に逆らう者の笏、すなわちその支配が及ばない様に、そして主に従う人が、悪に手を伸ばすことのないようにと願っているのです。

 このように、主に従う者に対しては祝福を、そして主に従わない者には災いをという二極化した思いを、主への信頼のもと明るい調子で描き出しています。

 ヘブライ人の手紙の作者も、主に従うものと従わないものに対することを、私たちへの警鐘として語り掛けています。まずヘブライ人の手紙の作者は、第2章の1節からで、読者に向かって注意を払う様にと忠告されています。それもいっそう注意を払わねばならないと言って強調して言っています。

 ではなぜ、このような強く警告を発しているのでしょか。この警告の発し方から察せられるのは、危機が差し迫っていることを感じ取れます。それでは、どの様な危機が差し迫っていたのでしょう。

ここで言われている危機には、外部と内部、二通り危機が考えられます。まず外側の危険としてはローマをはじめとする教会及びクリスチャン個人に対する迫害の手が迫ってきていることが考えられます。今まで同胞であったユダヤ人からの迫害も考えなければなりません。その様な事態に対する備えを行って行くことは確かに急務となっていました。

 しかし、それ以上に問題となっていたのは内側に迫っていた危険だったのではないでしょうか。常にこの世に生きているキリスト者には内的な危機が迫っており、その危機に注意を払う様にと言っているのです。

 私たちの内側に迫る危機とはいかなる危機だったのでありましょうか。高慢、自己中心、利己主義、慢心、誘惑など色々あるのは確かですが、その様な危機に備えていなければ、福音に従う群れとしての教会から脱落して押し流されてしまうと言うのです。その事は、決してヘブライ人だけに限ったことではなく、私たち自身にも当てはまることなのではないでしょうか。

 それに引き続いて「天使たちを通して語られた言葉」と言われていますが、神様がシナイ山において、天使たちを使って、律法を与えたと言うユダヤ教的な考え方から来ているもので、言ってみればモーセに与えられた十戒を指すので、律法全体まで指すものではありませんが、律法の中心となる十戒のことを示していることは確かです。

 天使たちを通して語られた言葉、すなわち十戒によって与えられた律法が効力を発して、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、「ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。」と言うのです。

 ここで言われている「これほど大きな救い」と言うのは、律法と比べて主が用意してくださっている救い救い、当座の危機からの救いではなく、主がこの歴史が始まる前から用意してくださっていた救いについてであり、だからこそ本来、律法に対して違犯や不従順が当然な罰を受けるとするならば、これほど大きな救いに対してむとんちゃくなことはどれほど罰深い事かと言っているのです。そして、救いをないがしろにする罰から逃れることが出来るはずはないと言っているのです。だから、私たちが聞いたことに気をつけるようにと言うのです。

 では、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示された大きな救いという様にまで言われている救いとはいかなるものだったのでしょうか。それは自分たちに宣べ伝えられた福音であり、この地上において主イエス・キリストによって語られた言葉や行われた御業、そして、その結果として示された大きな救いのことにほかなりません。そして、主イエス・キリストの御業は私たちの歴史が始まる前から用意されていたものであり、だから歴史を越えて私たちの救いでもあるのです。

 だからこそ、「更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。」と言うのです。

 旧約聖書の時代に与えられた律法は生活の木本でした。その中でもモーセの十戒は大切なものです。現在のキリスト教の教会の中にでも礼拝の中で、十戒を唱える教会もあると聞くほどです。しかし、その様な大切な十戒、律法よりより大きい救いは、まさに私たち全ての救いとして訪れて下さった、その救いは、天父なる神の独り子である主イエス・キリストによってもたらされたものであり、その救いの業はまさに神が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示されたものであり、だからこそ、「更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。」と言うのです。

 わたしたちも注意を払いながら、神様が不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えてくださり、証ししてくださっているこの証しにたいして、道をそれずに、むとんちゃくにならずに忠実に歩んでいかなければいけないのです。それが主に守られて喜びを持って歩んでいく道なのです。

 

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