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癒しの祈り

降誕節第9主日礼拝 

説 教 「癒しの祈り」 岸敬雄牧師

聖 書  列王記下 4章18~37節 ヤコブの手紙 5章13~16節 

 

 人が病気から癒される事の究極の形としては、いったん死んだはずなのに生き返ることではないでしょうか。今日の旧約聖書の場面は、エリシャが子どもを生き返らせた場面でした。エリシャを援助してくれていた家族に対してエリシャが約束して与えられたひとり息子が、刈り入れをしている時に突然頭の痛みを訴えて死んでしまったのです。

 すると、その連絡を受けたエリシャは、先に弟子のゲハジに自分の杖を持って行って息子の顔の上に置かせました。しかし何の反応もありませんでした。次に自分が行って祈った上で、体を重ねるなどして何とか生き返らせることが出来ました。

 旧約聖書では、エリシャの師匠にあたるエリヤも列王記上17章において、自分を養ってくれていた女主人の一人息子が、病気にかかり死んでしまったのを生き返らせています。その時も、エリヤも神に祈り三度も身を重ねるような仕草をしています。その様に苦労して息子を生き返らせることが出来ました。その結果、エリヤは自分が神の人であることを改めて示すことが出来、エリヤが本当に神の人であることを女主人は理解することが出来たのです。

 新約聖書でしたら、イエス様が生き返らされた話として、ヨハネによる福音書11章にあるマルタとマリアの兄弟であるラザロを生き返らせた話などがありますし、他にもイエス様はルカによる福音書8章にあるヤイロの娘を生き返らされた話がすぐに思い浮かぶのではないでしょうか。

 弟子たちでしたら、使徒言行録9章にあるペトロがタビタを生き返らせた話、そして使徒言行録20章で3階から落ちた青年をパウロが生き返らせた話などを思い出される方もいらっしゃると思います。

 もちろん、これらの生き返ると言う出来事は、癒しの業と同様に、現在の私たちの体と同じ、再び病気にもかかるし、年を取っていけば、いずれは死んでしまう体に生き返ったことは間違いありません。

 生き返らせた話を見て行く時に、一つ気付くことがあります。旧約聖書においては、本日読んでいただいたように、随分色々な事を行って、時間をかけて生き返らせた様子が書かれていますが、新約聖書で、生き返らせた話しにおいては、それほどまでの苦労している様子は書かれていないのです。パウロなどは、自分の話が長くなりすぎて、眠くなって三階から落ちて死んでしまった青年を生き返らせますが、その後も、何もなかったようにパンを割いて食べ再び話しを続けるのです。

 なぜ、新約聖書と旧約聖書でそのような違いがあるのかについて、聖書には何も記載はありませんので、私の考えという事に成りますが、旧約聖書の時代においても神様が必要とお考えになられれば、死んだ人を生き返らせるような奇跡も起こりました。しかし、旧約聖書では神様に関して知ることに関して限られていました。

 それに対して新約聖書の時代には、イエス様が奇跡を行われるのは、父なる神と御旨を共にされ、御子として当然でありましょうが、それと共に、弟子たちがイエス様の様に生き返る奇跡を行えたのは、旧約聖書の時代よりより正確に福音を理解することが出来ていたからではないでしょうか。

 言い換えるとするなら、イエス様をよりよく理解し、その御力についてもより深く知っていたからこそ、イエス様の様に行う事も容易かったのではないでしょうか。

 旧約聖書においてより、よりよく福音を理解している人々に対して、ヤコブの手紙5章においては、苦しんでいる人に対しては祈ることを勧め、喜んでいる人には讃美の歌を歌うことを勧めています。

 もちろん、苦しんでいる時に賛美によって慰められる方もいらっしゃるでしょうし、喜びの時に感謝の祈りを捧げることも大切ではありましょうが、旧約聖書においてエリヤやエリシャが生き返らせる時に祈りを捧げて生き返るようにと願っていた様に、何事に関しても祈りは大切であり、まず御心を知りそれに従うことが大切でしょう。

苦難の中にある時は、祈ることも難しく感じる時もありますが、その様な時にこそ祈ることが大切なのです。

 さらに、喜んでいる時にはつい喜びのあまりに主を忘れてしまう事に成りがちですが、その様な時こそ、心から主に対して讃美を捧げることが大切なのです。さらに続いて「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。」と言うのです。

 プロテスタントにおいては、サクラメント秘跡は洗礼と聖餐の二つのみですが、カトリックではサクラメント、秘跡、7つあり、その一つとして、「病者の塗油」というのがあり、病人に油を塗って祈り病気の回復を願ったり、臨終のときに油を塗る習慣があると言います。プロテスタントでは、病人に油を塗るような行為はあまり行われていないかもしれませんが、互いに祈り合う習慣は大切にしていきたいと考えます。

 なぜなら「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」と言うのであり、「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」とも書かれている通りだからです。

 そして、ここで少し気をつけたいのは、「その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」と言っていることで、この様な言い方は、病気の原因が罪であったと考えられていたことから、病気が癒されるとは、罪を赦されることと同様のことであると考えていたからこその言い回しです。

 そして、信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださる、だからこそ、罪を告白し合い、互いのために祈りあうことが必要なのです。思えば、旧約聖書においても、新約聖書においても生き返らせた奇跡を見てきた時、そこには、主に用いられていた正しい人が、神の力を働かせていたのです。そして、自分の力ではなく主に寄り頼んでいる正しい人の姿があるのです。

 だからこそ、私たちも絶えず祈ることを許され神様に寄り頼んでいるのです。祈りによって主に自分の罪も、弱さも、感謝も、讃美もすべてを伝えることができるのです。そして、祈りによって力を得て、癒され進んで行くことができるのです。

 

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