過去の説教

世界の始まる前から

降誕節第8主日礼拝

説 教 「世界の始まる前から」 岸敬雄牧師

聖 書  箴言2章1~9節  コリントの信徒への手紙一2章6~10節

 箴言について辞書などで調べてみると、その内容として、道徳上の格言や実践的教訓だと書かれていました。箴言は実際に自分たちが厳しい環境下において生き抜いていくための知恵であるとも言えましょう。

本日の箴言2章の初めの小見出しに父親の諭しと有りますが、父が我が子に対して諭した実践的教訓と言うことができましょう。親の諭については、モーセの十戒の中にも第5の戒めとして「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」と言われているように、父母を敬うからにはただ単に尊敬すると言うのではなく、忠告等に聞き従うでき事も含まれていたのは明らかでありましょう。

 ここで父と母が平行に言われていることは大切であり、父系社会であり父親の権力が強かったはずのイスラエルにおいても、父と共に母の言うことにも従う様にと言っているのです。そして、父母を敬うことに対する祝福として「主が与えられる土地に長く生きることができる」と言っているのです。

 本日の箴言2章の内容としては、父が息子に対して、わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして、分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら、そして、銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すならと、色々な条件を上げてその結果として、「主を畏れることを悟り、神を知ることに至ることが出来るだろう」と言うのです。

 そして、主がどの様なお方であるかが述べられます。主は知恵を授ける御方であり、知識と英知を与えて下さると言うのです。ここで言われている知識と英知とは、この世の中で生活していくための知識や英知ではありません。もしそのような知識や英知であれば、父親自身が教えることが出来るはずです。主が与えて下さる知識と英知とは、私たちが救いに関わる知識と英知であり、言ってみれば神様の救いの計画を知ることを指し示してているのです。

 そして、救われる人はどの様な人かと言えば、それは主から見て正しい人であり、その様な人に対して、「主は正しい人のために力を、完全な道を歩く人のために盾を備えて、 裁きの道を守り主の慈しみに生きる人の道を見守ってくださる。」と言い、主は私たちに知識や英知などだけではなく、力や完全な道を歩むための盾を備えて下さり、私たちを見守っていてくださると言っているのです。

 主はなぜ、このような事をして下さるのかと言えば、それは「正義と裁きと公平はすべて幸いに導く」からであり、主を畏れることを悟り、神を知ることが出来た人に対して導いて下さるだろうと言っているのです。

 主は私たちに知識や英知などだけではなく、力や完全な道を歩むための盾を備えてくださる働きは、何時から私たちのために備えられていたのでしょうか。

 その答えと成りそうなのは、本日の新約聖書のコリントの信徒への手紙一において、パウロが言っている「隠されていた、神秘としての神の知恵」といわれている知恵を理解する事が、助けとなるのではないでしょうか。パウロは、「世界の始まる前から定めておられたもの」は「隠されていた、神秘としての神の知恵」だと言っています。その知恵は、信仰に成熟した人に対して語られる知恵であり、そして世の知恵でも、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもないのだと言うのです。

 そして、私たちが語る知恵と言います。私の語る知恵ではなく、私たちの語る知恵なのです。それは、パウロだけが語るのではなく、パウロの同労者たちが共に語っている知恵だと言うのです。そして、この知恵をこの世の支配者たちは誰一人理解できた者はいなかったと言うのです。

 そして、ここで旧約聖書の言葉を引用していますが、引用されている聖書箇所としては、イザヤ書64章3節、65章17節からの引用と思われ「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるというのです。

 そしてこの知恵の内容としては、この知恵を理解していたならば「栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」と言い、主イエス・キリストの救済の業と関係があることは明らかです。このことから考えて、隠されていた、神秘としての神の知恵とは、主イエス・キリストと関係していることが分かり、さらに言えば、主イエス・キリストによって行われた救いの計画については、世界の始まる前から定めておられたものであることが明らかだと言っているのです。

 この世界の始まる以前から用意されていて、「神は御自分を愛する者たちに準備された」ものであると言うのです。神を愛する者たちのために、この世界の創造以前に準備されていたもは確かに、主イエス・キリストの救いの御業であり、私たちの罪の贖いであり、主イエス・キリストの十字架上での死であり、その後三日目の復活の出来事であり、隠されていた、神秘としての神の知恵とは、まさにこの救いの計画そのものだったのではないでしょうか。この救いの計画は、この世界の始まる前から用意されていた計画であり、私たちの限られた知識に基づいた知恵によって完全に理解することは不可能であるとは確かでしょう。

 その様な私たちのために、「神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。」というのであり、私たちが理解出来るようにと神は霊によって明らかにされたのです。この霊とは、聖霊なる神に他ならないでしょう。私たち人間の知を超える部分に対して、神様はその霊によって理解させて下さるのです。

 私たちに与えられている聖霊なる神が私たちに必要な知識を与えて下さり、私たちを導いて下さるのです。そして、聖霊なる神に導かれて、世界の始まる前から備えられている救いの御業を知らされ、私たちは聖霊から知恵を解き明かされて、人の知恵ではなく神様からの知恵に寄り頼んで、いかなる困難な時であろうとも希望を持ちつつ進んで行くのです。

 

アーカイブ