過去の説教

たとえを用いて

 降誕節第7主日礼拝 岸 敬雄牧師

説 教 「たとえを用いて」 

聖 書  サムエル記下12章1~13節 マルコによる福音書4章21~34節

 私たちの会話の中でもたとえを用いて話を進めることがあります。その目的は、話の内容を相手によき理解してもらうためにたたえを用いることが多いのではないでしょうか。聖書においては、色々な場面においてたとえが用いられて語られています。しかし、聖書においてたとえが用いられる目的は、人々に語っている話についてよく理解してもらうためであると共に、限定した人々にはわかるけれども、他の人々には理解できない様にするためにたとえを用いて語られることがあるのです。

 本日の旧約聖書、サムエル記下12章においては、主の指示によって預言者ナタンがダビデ王のもとに遣わされ、ダビデ王に対して、ヘト人ウリヤを剣にかけて殺させ、その妻を奪って自分の妻としたことを叱責した、その時に用いられたたとえです。

 そのたとえ話とは、「豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて彼の皿から食べ、彼の椀から飲み彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。

  ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ貧しい男の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った」と言うものでした。

 この話を聞いて、ダビデ王は、豊かな男に激怒し、ナタンに「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ」と言ったのでした。この様にダビデ王が言うのに対して、預言者なダンは、この豊かに持っていた者は、ダビデ王のことである言うのであります。ダビデ王は激怒しながらまさに、自分自身で自分に死刑を宣告してしまったのです。そして、ダビデ王が自分自身に対して下してしまった死刑宣告について、それを覆すことが出来たのは神様しかおられなかったことを、本日の聖書箇所は伝えているのです。

 サムエル記下12章において、ダビデ王に自分の罪を自覚させるために、たとえが用いられ、その効果を十分に果たしています。そして、ダビデ王は自分の行った罪の大きさを自覚することが出来た故に悔い改める事も出来たのです。ダビデ王はその後、大きな損出を負いながらも、理想の王と言われるまでの生涯を送ることが出来たのです。

 また、新約聖書においても、多くの箇所でたとえを用いて語られています。しかし、本日読まれた新約聖書の箇所であるマルコによる福音書4章21~34節において語られているたとえは、ダビデの時とは異なる目的があったようです。たとえで語るその目的について、本日の聖書箇所の少し前4章10節からで、「 10イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。

11そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。
12 それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」と言われたのでした。

 イエス様は、外の人達に対して、「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない」ためにたとえを用いるのであり。うちの人たち、すなわちイエス様の福音を受け入れた人達のみがたとえを理解できるようにと、たとえを用いて買ったっていると言うのです。

 しかし、ここで外の人と内の人を分けて差別していると言うよりも、むしろイエス様のたとえが分かる家の人へとなる様に人々を招いていらっしゃるのではないでしょうか。

 本日は、イエス様によって語られた4つのたとえを見て行きたいと思いますが、ここで語られているたとえは、イエス様の教えを受け入れた人々に対して語られているたとえであると見ても良いのでありましょう。

 最初のたとえ、ともし火についてのたとえでは、ともし火を持って来る時の行動として、升や寝台の下、すなわち人目に付かないところに置くのではなく、本来その働きを最も果たすことのできる場所である燭台の上に置くはずであると言っています。

 それは、宣教を行う者の態度を示しているものであり、一番適切な働き場所で働き、確かな働きをするようにと勧めているのです。さらに「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」ことを示し、神様の真実の教えは、隠されているものでも、秘められているものでも、必ず公にされるものであることをも示しています。

 そして、次に「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる、持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」と言うのです。

 自分の持っているものに従ってはかられる。このたとえを聞くと、タラントの教えなどが思い出されます。自分の力量に合わせてはかられ、それに見合って働いたものは祝福され、自分が力量を持っているのに、合わせて働かない者は、今まで持っていたものまで取り上げられてしまうと言うのです。

 人々の持っている才能等を、どの様に使用すべきかと言うことについても含め、たとえを聞いている人々に「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われるのです。ここでは、たとえを理解出来る人々が限られていることが伺えます。それは、33節で「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた」と言われている通りです。

 さらに、神の国の話が語られ、種が成長して行くのに似ていると言うのです。人が種をまいたとしても、種をまいた人が知らないうちに芽や根、茎などが成長して結実していく、そのように神の国も人間の関与なしで、神様ご自身によって、必ず実現されるものであることを示すと共に、神の国の秘密は必ず取入れの時の実りのように世の中に示されなければ成らないことを表しているのです。

 さらに、最も小さいものから最も大きいものへと変わるように、神の国の秘密は、今は小さなからし種の様に世から隠されているが、やがては世界に必ず明らかにされなければ成らないものであることを表しているのです。

 多くのことが語られますが、「イエスは、人々の聞く力に応じて」語られるのと共に、「御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」のでした。聖書を読んでいる時に理解できない事も多くありますが、イエス様は一時わたしたちに隠されていることがあるとしても、人様な時庭理解できるようにと説明してくださり、私たちを導いて下さるのです。

 私たちはイエス様の教えを確かに受け止めて、そしてイエス様の言われたことをしっかりこの身に引き受けて、日々歩んでいかなければ成らないのです。

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