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神は主を復活させる

説 教 「神は主を復活させる」 岸敬雄牧師

聖 書  歴代誌上29章10~19節  コリントの信徒への手紙一6章12~20節

 

 本日の歴代誌上29章は、歴代誌上の最終章になります。波乱万丈の人生を送ってきたイスラエルの二代目の王であるダビデ王の最後の事業として行った、神殿建築の準備と三代目の王となったソロモン王の即位の様子が描かれています。その様な29章の中で10~19節は、神殿建築のために建材を集めた時にダビデ王によって捧げられた祈りとなります。

 ダビデ王は、人生の中で多く祈りを捧げてきました。辛い時も嬉しい時も、罪を犯した時には懺悔の祈りを捧げた事もありました。そんな中でも本日の箇所は喜びの祈りと言って良いでしょう。

 「わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。」と賛歌を捧げるのでした。

そして、神殿の建築資材を寄進したことなど、どれはどのことであろうかと言っています。しかし、ダビデ王自身は自分の手で神殿を建築することが出来ず、自分の子どもであるソロモン王が神殿を建てることになっていくのです。

 後の世においても理想の王と考えられるようになったダビデ王が、神様のために考えた神殿献堂でしたが、神様ご自身から断られてしまったのです。その理由は、ダビデ王が多くの血を流しすぎたからだと神様は言われるのです。そして、神殿建設は次の王であるソロモン王に託され、完成を見ることとなるのです。

 このように、ダビデ王に対しては一世一代の神様に対する感謝の行動であり、善意の行動であった神殿建設であったとしても、神様自身からことはわられ、自由に行うことができないことがあるのです。

 ところが、本日新約聖書のコリントの信徒への手紙一6章では、「わたしには、すべてのことが許されている。」と言っている人々がいたのです。しかし、この様に言っていたのはコリントの中でも自分たちは賢い者だと考えている人々特別な人々で、その様な人々に対してパウロは「すべてのことが益になるわけではない。」と言って答えたのです。

 この「わたしには、すべてのことが許されている。」と言う言葉は、コリントの教会の中で、自分たちを賢いものと考えている人々の中でよく使われていた常とう句だったのです。そして、自分たちはどの様な事を行っても大丈夫だと考えていたのでした。

 しかし、パウロはそれに対して、その様に自分たちは全てに対して自由だと言う考えは、何でも行っても良いと言うことではないと警鐘を鳴らしているのです。

 それなのに、コリントの人々の中の自分を賢いと思っていた人々は「わたしには、すべてのことが許されている。」と言って自分の思いを優先して行動をとっていたのです。

 それに対して、パウロは重ねて、「わたしは何事にも支配されはしない。」と言うのです。パウロは自分が賢いと思っている人々に対して、「わたしは何事にも支配されはしない。」と言うことで、暗に逆説的に彼らは色々なものに縛られていると言うことを批判しているのです。

 そしてさらに話を発展させていき、「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます」と言って、次の話へと進んで行くのです。

 腹とは体の一部であるけれども、腹は自分の働きである食べ物の事しか考えず、食べ物も体全体のことを考えるのではなく、自分に関わる腹に対してしか考えない、その様な考えを持っている限り、神様が滅ぼされると言うのであり、体が本来どのようなものとして与えられているのか、それを考えるように「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。」といい、主は体全体に対してあるのであり、腹などの一部分のためにあるのではなく、そして体は主のためにあるものであり、自分たちの自由にできる部分があるとしても、制限あるものであると言うのです。

 そして、「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。」と言い、主イエス・キリストが復活させられた、その力で私たちも復活させて下さっているのであり、「主に結び付く者は主と一つの霊となるのです」であり、私たちは主と結びついている者なのであり、御子と御父が一つであられるように私たちも主と一つとなっているのだと言っているのです。

 さらに、「体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」と言うのです。

 私たちの体は、神の神殿であり、霊においては主と結びつき一つとされており、決してみだらな行い、娼婦などの相手をして、使用してよいものでは無い。神聖なものであり、自分の思いだけで自由にできるものでは無いと言っているのです。

 自分の思いだけで自由にできるものでは無いさらに一つの理由として「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」と言い、私たちが主のものであることは、私たちが代価を払って買い取られたからと言うのです。

 その支払われた代価が何であったかと言えば、それは御子イエス・キリストにほかなりません。主なる神は、私たちのために自分の独り子であられるイエス・キリストをも代価として支払って私たちを罪から解放してくださったのです。だからこそ、霊によって主と一つとされている私達の体を、神の神殿として扱い、大切の扱って行かなければいけないのであります。

 

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