過去の説教

なぜ、わたしを迫害する

説 教 「なぜ、わたしを迫害する」 岸敬雄牧師

聖 書 詩編100編1~5節 使徒言行録9章1~20節

 

 本日の新約聖書は、パウロの回心の場面になります。当時パウロは、まだサウロを名乗っていましたが、サウロは、信仰深い青年で、熱心なファリサイ派の一員でした。彼は純粋に自分の信じている唯一の神に従いたいと考えて、学び行動していたのでした。

 そんなサウロが、なぜキリスト教徒を迫害していたかと言えば、キリスト教徒はもともと自分たちと同じユダヤ人であり、自分と同じ神を信じている人たちであると考えていたのでした。それなのにキリスト者は、自分たちの救い主は神の独り子、イエス・キリストであり、サウロから見れば、自分が今まで信じて仕えてきた唯一の神とは異なる神を宣べ伝えていると思え、彼らを異端者だと考えたからです。

 本来同胞であり、同じ信仰を持っていたはずの人々が、新しいわけが分からない救い主を信じていると言っているのは、自分が一番大切にしている、神に対する信仰への裏切り行為であり、決して許せない事だったのです。だからこそ、一番初めの殉教者と言われるステファノが殉教する時に、その場に立ち会っていたサウロは、ステファノに対して石を投げている人々の上着を預かると言う形で、ステファノの殉教に賛成していたのです。

 そんな彼が、いよいよ自分の手で、この異端者たちに制裁を加えようと行動を開始し始めたのでした。彼は確かに学問を修めた人物であり、上流階級に属し、ファリサイ派にも属していて、生まれながらにローマの市民権まで持っていましたが、彼は治安を司る警察でも、軍人でもありませんでした。

 イエス様がこの地上におられた当時のユダヤでは、上流階級の人間であったとしても、父親の行っていた、言わば自分の家の職業を継いで、何らかの仕事を身に着けるのが普通だったのです。パウロの場合は、その職業と言うのはテント張り職人でした。

 そんな彼が、自分から志願してまで、「御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受け」キリスト者を迫害する活動を行った動機は、彼の信じる神に対する信仰と正義感からだったのです。

そんなサウルに主は、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかけられたのです。それに対してサウロは「主よ、あなたはどなたですか」と問いかけたのでした。

 それに対して主は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と答えられたのです。まさに復活された主イエス・キリストとサウロが出会った場面です。そしてイエス様は「 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」とサウロへと指示を出されたのです。

 サウロは、この出来事は主が行われた出来事であることを自分の身をもって知ることとなるのです。目が見えなくなったサウロは人々に手を引かれながらダマスコへと向ことに成ったのでした。

 「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」のでした。ただ飲み食いしていなかっただけではありませんでした。彼はその間ひどい責め苦にあい、彼は祈り、そして悔い改めをしていたのでした。

 その後、主から声をかけられたアナニアと言う人が登場してきます。アナニアは、主から声を掛けられ『「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」』と言われても「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」と言い返しているのです。

 しかし、「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」と主から言われると、主に従ってサウロのもとに赴いたのでした。

 サウロは、主が言われた通りにアナニアによって癒され今まで見えなかった眼は見えるようになり、そして、主を証しするようになったのです。サウロは、まさに主によって生き方を全く逆方向に帰られたのです。

 パウロは、主が言われた通り今までと違い、 迫害する者から迫害される者へと変わって、人々から尊敬されるファリサイ派の上流階級の生活から、今まで自分が迫害していたイエス・キリストを救い主と述べ伝える生活へと変わってしまい、苦難の道のりを歩んでいったことは間違いありません。

 しかし、この苦難の道こそが、真にパウロが求めていた神に対して仕える生活だったのです。この生活は、どの様なこの世の苦難の中にあろうとも、決して失われることの無い希望と確信に満ちた、恵みの中にある生活だったのです。

 詩編100編の作者が述べているような讃美と喜ぶが、この苦難の生活の中にはあったのです。喜び祝い、主に仕える喜びがあったのです。どの様な苦難の中においても。

 私たちも、パウロの様に復活された主イエス・キリストと出会った者として、どの様な苦難に遭おうとも、パウロが主イエス・キリストを宣べ伝えていた様に、私たちも希望をもって、主を宣べ伝えつつ歩んでいきたいと願うのです。

 

アーカイブ