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イエスの洗礼

説 教 「イエスの洗礼」 岸敬雄牧師

聖 書  詩編36編6~10節 マルコによる福音書1章4~11節

 

 詩編の36編の作者は、主の慈しみによって、主の救いが人のみに留まるものでは無く、獣にまで及ぶと言い、神の慈しみが、いかに尊いかを例を挙げながら述べています。主は全てのものの造り主であり、全てのものに対して救いと慈しみを与えて下さる方なのです。

 それは、神が親鳥のように、神の翼の陰に集められる安心感、私たちの家に滴る恵み、神の与える甘美な流れによって乾きが癒される様子、その流れの元である命の泉は、神のもとにあると言うのです。そして、「あなたの光に、わたしたちは光を見る。」と言うのです。

 あなたの光、すなわち神の光を私たちが見る、その光とは何でしょうか。それは、私たちの救いの光であり、救いを具現化されたイエス・キリストにほかなりません。イエス・キリストが光であることは、ヨハネによる福音書1章1~10節までの中でも描かれています。

ヨハネの福音書1章の中では、本日よまれた新約聖書で言われている洗礼者ヨハネの使命について、7節、8節で「 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」と言っています。洗礼者ヨハネの役割は光を証しするためであり、そして信じさせるために来たのであります。ここで言われている光がイエス・キリストであることは疑いようも成己確かの事でありましょう。。

 この様に、ヨハネによる福音書では、洗礼者ヨハネを人々に対してイエス・キリストを証しする者として、そして信じさせるものとして描いていますが、マルコによる福音書では、イザヤが旧約聖書の時代に予言していたイエス・キリストの前に現われて、イエス・キリストのために道を整える者として捉えられています。

 そして、彼洗礼者ヨハネが現れて行ったことは、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝え、洗礼を施すことでした。この洗礼者ヨハネが、洗礼をほどこす活動に対して「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」と言うのです。

 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆と言うのは、さすがに比喩的な表現であろうとは思われますが、洗礼者ヨハネの活動が住民の階層に関わりなく受け入れられて、皆が従おうとして、訪れてきた様子がよく表わされていると思います。

 そして、洗礼者ヨハネの活動について述べている途中で彼の衣装や食生活についてわざわざ「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」と言っているのは、ヨハネが当時考えられていた預言者のスタイルと生活様式をしていたことを示し、彼が預言者であることを改めて示しているのです。

 そして、彼が宣べ伝えていたのは、悔い改めと共に、これから来られる方についてでした。これから来られるイエス・キリストに対して「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」と言うのです。

 そんな洗礼者ヨハネのもとに、自分の後から来られると言っていたイエス・キリストご自身が訪れて、洗礼を受けたいと申し出られたのです。

 マルコによる福音書では、イエス・キリストが洗礼を受けられた時に起こった出来事として、『水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。』と言う事実だけを伝えています。

 天から鳩の様に聖霊が下りてきて、天からの声によってイエス・キリストが天父によって愛する子でありることが示され、三位一体の神が、表されているところだとも言われます。私たちが、洗礼を受ける時にも、聖霊を受け、天父から認められることが大切です。その条件として、罪に対する悔い改めが大切であり、御子イエス・キリストに対する信仰が大切なのです。

 洗礼の意義は、洗礼者ヨハネの悔い改めから、さらに主イエス・キリストによって、教会へと迎え入れられる儀式となり、悔い改めた後、神様に罪許された者と見ていただけ、神様との関係を修復し、神様のみもとへと繋がる道が開かれる儀式となったのです。

 私たちは、主イエス・キリストによって開かれた救いへ至る道の入り口である洗礼を受けた後に主に従って歩む喜びの信仰の道を歩んでいくのであります。

 

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