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少年イエス

説 教 「少年イエス」 岸 敬雄牧師

聖 書  ゼカリヤ書8章1~8節 ルカによる福音書2章41~52節

 皆さんあけましておめでとうございます。教会によって新年のあいさつをみんなで一度に行う教会や、毎週主による平安と言って前後左右の方々と握手をして挨拶を交わす教会など色々の伝統的直しをも大事にしている教会があります。 

 昨日の1月1日は、キリスト教の暦によれば、イエス様の命名日とされ、イエス様に名前が付けられ、イエス様が割礼を受けられた日とされています。

 昔は日本でもそうであったようですが、幼児の死亡率が高かったために1週間生き延びた子供に名前を付けて誕生したことを認め、正式な子どもとしたようです。出生以前から天使からその様に名付けなさいと言われていた「イエス」と言う名前は、当時としては決して珍しい名前では無かったようです。

 イエス様の幼小期に関する記録は、聖書の中にも大変少ないものとなっています。本日読まれました聖書箇所の一節まえに「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」と書かれてあり、本日の最後の箇所に「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」とある様に、イエス様は神に愛され恵みを与えられ、人にも愛され、たくましく育ち背丈も伸び、知恵も増して満ち満ちていった。それで十分だと言っているようですが、あえてルカによる福音書の作者は、本日のイエス様が十二歳になった時に、エルサレムへ行かれた話が伝えられています。この物語から福音書の著者は、何を伝えようとしているのでしょうか。

 イエス様が十二歳の時、過越祭に両親と共に慣習に従ってエルサレムへと登っていったのでした。当時のユダヤ人は過越祭、除酵祭、仮庵祭の三大祭には、エルサレムに上って行って祝わなければ成らないとの規定がありました。それも、親族などとみんな一緒にエルサレルに上って行くのです。この律法に従う事に成るのは、十三歳からと言うことになっていました。しかし、それが負担に成らないために、あらかじめ宗教的義務になれるため、子どもたちに早めに参加させることが常であったと言います。

 だからこそ今回十二歳であったけれども、イエス様も参加されたのであり、今回はイエス様にとっては、正式な参加ではなかったことが示されています。 さらにこの場面から見て取れるのは、イエス様の家族は、律法にしっかりと従った生活を送っていたことも伺えます。

 そして、過ぎ越祭は、何事もなく無事に終わったようでした。しかし、事件はその帰り道に起きたのでした。

「祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった」と言うのです。なぜ気づかなかったかと言えば、イエス様が道連れの中にいるものと思いこんでいたのでした。

 イエス様の地上での両親であるマリアとヨセフは、毎年エルサレムへ行っていて、共に行っていた人たちが、知人や親戚であったこともあり、イエス様がいない事に気か付かなくても一日の道のりを行ってしまったのでした。

しかし、どれだけ親せきや知人の中を探してみてもイエス様を見つけることが出来ずに、慌てて探しながらエルサレムまで戻って来たのでした。

 そして、ようやく3日目にイエス様を見つけた時には、イエス様は神殿で教師たちの間に座って話を聞いたり質問したりしているところでした。両親は1日の道のりを必死に3日かけて探しながら戻って来たのでした。それなのにイエス様ご自身は、慌てることもなく教師たちの間に座って、話を聞いたり質問したりしていたのでしだ。そしてイエス様の応答を聞いていた人々は、その賢い受け答えに驚いていたのでした。

 そんな様子を見て両親は驚いて、そして母であるマリアは、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」と言ったのでした。それに対してイエス様は、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言われたのです。しかし、その真の意味を両親は分からなかったのです。 

両親は、イエス様の真の父が天父なる神であることを分からなかったが、イエス様は十二歳ではっきり理解されていたのでした。そして、自分の地上の両親に従うよりも、真の父である天父なる神に従うことの方が正しい事を、知っていたのです。

 しかし、それであるにもかかわらずイエス様は、地上に来られてからは、自分が宣教を始める公生涯と呼ばれる時期に入られるまでは、地上の両親であるマリアとヨセフに従順に従っておられたのです。そして自分の時が訪れるまで、誰にも気づかれる事が無く、イエス様は人として、この地上で私たちと同じ生活を送って下さっていたのです。

 イエス様は、私たちと同じ生活の中から、私たちの苦しみを知り、私たちの悩みを理解してくださったのです。

そして、私たちの救いのために十字架にまでお架かり下さって命までも投げ出して下さったのです。さらに3日目に復活させられてくださり。私たちの罪の贖いをすると共に、復活の希望に生きる事が出来るようにして下さったのです。私たちは、今年一年も主の名雲が降り注ぐ中、聖霊に導かれて、主の復活の希望の中を歩み続けていきたいと望むのであります。

 

 

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