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東方の博士

説 教 「東方の博士」 岸敬雄牧師

聖 書  ミカ書5章1~3節 マタイによる福音書2章1~12節

 

 神様から私たちに与えられた最高のプレゼント、それは何でありましょうか。それは言うまでもなく、御子イエス・キリストをこの地上に、私たちの歴史の中に私たちと同じ人の姿を持って訪れさせてくださり、私たちの罪を取りに除くために、御子イエス・キリストを十字架にお掛けになって、十字架上で命を落とされ、しかし、その3日後に復活させ、私たちが罪を贖われた者として天父なる神から罪にない者としてみなしていただけ、神様の御許に戻る道筋を示してくださった事でありましょう。

 だからこそ御子イエス・キリストが、この地上においでくださった事を喜び祝うのがクリスマスとなるのです。

神様から与えられた御子イエス・キリストを言う最高のプレゼントを見習って、私たちもプレゼントを交換する習慣があるのだと言えるでしょう。

 とかく現代のクリスマスのプレゼントは、サンタクロースがこどもたちに配って回るように思われがちですが、本来は、神様のプレゼントに対して私たちもそのまねをして愛を渡し合っている行為なのではないでしょうか。

 神様から与えられた最高のプレゼントに対して、私たちは、どの様に主に対してプレゼントをすることが出来るのでしょうか。プレゼントを形として示した最初の人たちは、おそらく本日の新約聖書に出てきた東方の博士たちではないでしょうか。本日読んでいただいた聖書の中では東方の占星術の学者と言われていましたが、他の言い伝えでは、それぞれが王であったとも言われています。なぜそのような事を言われるかと言えば、彼らが、ヘロデ王に対して敬語を使うのではなく、生まれたばかりのお方に対して敬語を使って「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言っていることから、ヘロデ王と対等な立場かそれ以上の人々であったことは確かでありましょう。

 それと共に、人数的には贈物として持ってきたのが、没薬、乳香、黄金と3種類であったため、3人と考えられるのが普通となってきましたが、人数に関しても本日の聖書に書かれている通り、複数であることは確かですが、人数が何人であったかは、ははっきりしません。

 それとともに、はっきりしていない事として挙げられるのは、占星術の学者である彼らは、日々星について研究していて、ユダヤ人の王としてお生まれになった方の星を東方で見て、拝みに来たのでが、この占星術の学者を導いた星が、どの星であったのか色々と研究されていますが、今でも結論は出ていません。

 そのように解らない事も多くありますが、解っていることは、東方の博士たちは、星を研究している専門家であり、私たちが現在考えるような星占いの様な一種の占いを行う人たちと言うのではなく、星を観察する事によって季節を知り、雨の降りだす時期や種まきの時期、取入れの時期等を決めるなど、生活に直結した大切な働きをしていた人たちであったと言うことです。言ってみればその時代の科学の一分野の最先端を担っていた。当時のエリートであった人々であり、その様な人々が確信を持って複数で苦難を乗り越えて訪れて来たことです。そして、占星学の学者たちが東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まったのでした。学者たちはその星を見て喜びにあふれたのでした。どうしてこれほどまでに喜んだのでしょうか。それは、まさに自分たちが信じて探していた、特別な王を見つけることが出来たからです。そして、自分たちの出来ることとして、幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたのでした。

 この救いの出来事は、私達にまで繋がっているのです。東方の博士たちの喜びは、占星学の学者としてではなく、自分たちの救いをもたらすお方に出会えた者の喜びであり、この喜びは、私たち自身がイエス様と出会った時の喜びと等しいものなのです。

 では、私たちはイエス様に対して贈り物として献げることが出来るでしょうか。イエス様は現在私たち目の前にはおられませんが、しかし、イエス様にどのようにして贈物を捧げるかのヒントは、マタイによる福音書の25章にあるように、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことな」のです。

 そして、このプレゼントを行うには何が大切なのでありましょうか。それはプレゼントに限ったことではないでしょうか、そこには愛が必要なのです。

 愛については、コリントの信徒への手紙一の13章1節から書かれている様に、「 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」と言っている通りです。

 神様から与えられた最高のプレゼントであるイエス様に対して、私たちは愛をもっと人々に神様の愛と祝福を伝えていきたいと願うものであります。

 

 

 

 

 

ここで捧げられた黄金、乳香、没薬は色々な意味を持たせて考えられてきました。例えば黄金は王のため、乳香は神のため、そして没薬は死すべき者のためと言われるように。しかし、ここでは贈物の内容より、イエス様が、東方から来た異邦人にお姿を現わされて、彼らがイエス様を礼拝して喜んだことの方が大切です。何故なら救いがユダヤの人々だけに限られたものでは無く、異邦人にも開かれた者であることを示している出来事だからなのです。

 

 

 

 

 

 

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