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「聖書が証しするものは」

待降節(アドベント)第3主日礼拝

                説 教「聖書が証しするものは」           岸敬雄牧師

聖 書 申命記18章15~19節  ヨハネによる福音書5章36~47節

 イエス様は「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。」と言われます。ここで言われているヨハネとは洗礼者ヨハネの事であるのは確かです。洗礼者ヨハネについては、マタイによる福音書14章5節で『ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。』と言っているように、預言者だと皆から思われていたのでした。

 預言者については、本日読まれました旧約聖書、申命記18章にも書かれている様に、「主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」と言っており、預言者は主がたてられるものであり、その教えには、ここで語っているモーセに対する様に、聞き従わなければ成らないものであると言われているのです。

 さらに、「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう」と言われている通り、預言者の口には神様御自身が言葉を授けて、預言者は神様が命じることをすべて民衆へと告げるだろうと言っているのです。もちろんこの予言者とは、正しい預言者であり予預言者の様な偽物の事では無いのが前提となりますが。

 洗礼者ヨハネは、神様の言葉を伝える預言者であり、イザヤなどによって旧約聖書の中に世出現が預言されていた特別な預言者でした。そのヨハネが口にした証しに勝る証しがあると、イエス様は言われているのであります。その証しとは「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」と言うのです。

 さらに「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。」というのです。しかし、「まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。」とも言われるのです。父、すなわち天父なる神が証してくださるが、そのみ声もみ姿もまだ聞いたことも見た事が無いと言われるのです。実際、天父なる神は、イエス様が洗礼を受けられた時と、ペトロ、ヨハネ、ヤコブだけを連れて山に登られた時イエス様の姿が変わられた時に声をかけて下さっているのです。しかしそれは特別に選ばれた人々だけへ行われた出来事であり、一般の人々にはそのみ声を掛けられることはなかったのでした。

 ではイエス様に付いて、天父なる神はどこから語り掛け、証ししてくださっているのでしょうか。そのことについて、イエス様は「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」と言われるのです。

 聖書とは現在私たちが言うところの旧約聖書のこととなりますが、この聖書は、イエス様のことを証しするものだと言うのです。旧約聖書の中には歴史書や詩編の様な文学的なもの、預言者の書など色々ありますが、聖書の作者は、人によって書かれた者ではありますが、それは神様のよって人を介して書かれたものであり、究極的には神様ご自身が著作者であると言えるのでありましょう。そして、その内容は表面的には色々な事が書かれていますが、その主旨は救い主である主イエス・キリストを証しする事なのです。

 そして、人々は聖書の中には永遠の命があると考えて研究している、その永遠の命は主イエス・キリストご自身によって与えられるにもかかわらず、人々はイエス様の所へ来ようとしないと言われているのです。

 そして、はっきりと「わたしは、人からの誉れは受けない。」と言われるのです。イエス様は人から誉を受ける必要はないのです。そして、さらに彼らに対して、「神に対する愛がない」と言われるのです。

 なぜ神に対しての愛がないのを知ることが出来るのかと言えば、人々は「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。」というのです。当時現実的に権力を振るっているような人から送られてきた人ならば受け入れるにもかかわらず、御父の名によって来たから受け入れられない、その様に言われるのです。そして、「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしない」と言われるのです。

 さらに「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからであるしかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」と言うのです。

 旧約聖書の中でその基本的な戒め、言い換えれば神様とのかかわり方を書き記しているモーセを信じ、その戒めを守り続けていたならば、イエス様のことを信じていただろうと言うのであります。なぜならば、モーセが書いていることは、イエス様について書いているのだと言うのです。前に、聖書がイエス様のことを証していると言ったことを、より具体的にいっているのです。

 そして、モーセの書いたことを信じられないとするならば、どうして私の言っていることを信じることが出来るかと言うのです。

 イエス様について証ししている聖書は、もちろん旧約聖書ばかりではなく新約聖書も併せて、聖書全体が主イエス・キリストを証しているのであります。私たちは、その聖書が証しているイエス・キリストを自分自身の知識としてではなく証しとして理解する恵みを与えられているのです。

 どの様な暗闇の中の世界においても主イエス・キリストは光として私たちを導いていて下さいます。私たちはその光に導かれて救いの希望を持って歩き続けて行くのであります。

 

 

 

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