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ダビデの子にホサナ

説 教「ダビデの子にホサナ」 岸敬雄牧師

聖 書 イザヤ書62章10~12節 マタイによる福音書 21章1~11節

 本日は、アドベント第二週になりました。救い主であるイエス・キリストをこの地上にお迎えするクリスマスの出来事の時には、羊飼いや東方の博士たち一部の人たち以外に、殆ど気づきませんでした。しかし、救い主を皆が待ち望んでいたことは確かであり、マタイによる福音書の作者はイエス様の最後のエルサレム入場の出来事を旧約聖書の預言の成就であるととらえて描いています。

 なぜこのようなとらえ方をしているのでしょうか。それは、イエス様が自分たちだけの救い主ではなく、私たちの言い方から言えば旧約聖書の時代から続く救いの出来事であり、それは歴史の中の出来事としているからです。歴史の中の出来事だからこそ、現代の私たち、そしてこれから未来の人々にも関りがある出来事であることを示しているのです。もっとはっきりした言い方で言うならば、イエス様が世の初めから世の終わりまでの全ての人々の救い主であることを証明しようとしていると言えるでしょう。

  一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来た時、イエス様は、わざわざ弟子の二人を遣わして子ろばを連れてくるようにと言われたのでした。イエス様は、これまでご自分で歩かれて旅を続けておられたのに今回は特別に子ろばを連れてくるようにと言われたのです。

 そして、弟子たちは、イエス様に言われた通り、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、向こうの村へ行くとろばがつないであり、一緒に子ろばを見つけて、それをほどいてイエスさまの所に連れて来たのでした。そして、その子ロバにイエス様はお乗りになったのです。

 この出来事を、マタイの福音書の作者は、ゼカリヤ書9章9節「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなく、ろばに乗って来る雌ろばの子であるろばに乗って。」と言っている預言の成就であると見ているのです。だからこそ、イエス様は、親のろばに乗るのではなく敢えて子ロバに乗るようにされているのであります。

 そして、イエス様が乗られた子ロバとは、平和の象徴としての意味も含まれています。人々が望んでいた強い王のような救い主ではなく平和をもたらす真の救い主であることを子ロバは象徴しているのです。

 さらに、「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる」と言われているのも、本日読まれましたイザヤ書62章11節の「見よ、主は地の果てにまで布告される。娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い主の働きの実りは御前を進む」と言われている予言の成就だと言うのです。イエス様が娘シオン、すなわちエルサレムに対して進んでくる様子をイザヤや、ゼカリヤの時代から語り伝えられてきたことの成就として、歴史の中の出来事としてとらえているのです。

 そして、イエス様が子ロバに乗ってエルサレム入城してこられると、『「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。』というのです。

 皆がこれほどまで熱狂してイエス様のことをお迎えしたのは、旧約聖書で予言されていた出来事であり、この予言の成就による救い主の出現は、皆が待ちわびていた出来事だったのです。自分の大切な財産である上着を道に敷いたり、道に敷く上着を持たないような人々は自分のできることとして、木の枝を切ってきて道に敷いたのです。

そして、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と叫んだのです。

 ダビデ王は、イスラエルの民族が皆一つとなってイスラエルが一番反映した象徴となっているのです。その一番の繁栄の象徴であるダビデの子として、イスラエルの栄光を取り戻してくださる方が救い主であり、イエス様がそのような栄光を取り戻してくださる救い主であると考えたのです。

 それと共に、「主の名によって来られる方に』と言っているのです。単なる人ではなく主、すなわち神の名によって、もっとわかりやすく言うなら、神に指名されてこられた方だと言うのであります。そしてその方に祝福を祈ると共に、いと高きところすなわち神様に、ホサナといって、神様に「今救って下さい」あるいは、神の御名によって来られた方に「ばんざい」と言って歓声を上げているのです。

 決してこの歓声には間違いも、うそもなかったでありしょうが、ただ群衆は、イエス様のことを、真の救い主としてではなく預言者だと認識していたのです。イエス様のことを本当に理解出来たのは、イエス様が復活された後であることを私たちは知っているはずです。

 私たちは、ここで喜びの声を上げている群衆以上にイエス様がこの地上においで下さった事に対する感謝と喜びを感じることが出来るはずであります。私たちは、心からホサナを心の中で叫んでイエス様をお迎えできるようにクリスマスに向けて悔い改めを行い、自分自身を整えていければと願うものであります。

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