過去の説教

異邦人の救い

            待降節(アドベント)第1主日礼拝

            説 教「異邦人の救い」 岸敬雄牧師

            聖 書 イザヤ書52章1~10節  ローマの信徒への手紙11章13~24節

 

 前に飾られているロウソクにも火がともされました。それぞれのロウソクには、第1週から「預言者のキャンドル」希望、第2週「天使のキャンドル」平和、第3週「羊飼いのキャンドル」喜び、第4週「ベツレヘムのキャンドル」愛、を象徴しているなどとも言われます。教会、教派によってロウソクの色が違ったり、4本ではなく5本であったりと、その教会ごとの特徴をたして飾っているところもあります。

 しかし、どこの教会においても、救い主である主イエス・キリストのご降誕を指折り数えて待ち続ける思いがこもっていることのは違いが無いのは確かでありましょう。

 アドベント・待降節 入りました。全人類の救い主である主イエス・キリストをこの地上にお迎えする、喜びのクルスマスに向けての日々を喜びを持って過ごして行くことになります。この時期に当たってパウロが異邦人の救いと自分の同族であるユダヤ人の救いについて見て行くことは、有意義な事なのではないでしょうか。

 パウロは、自分が異邦人に対する使徒であると自覚して、その働きについて栄光を感じているのと共に、キリスト教に改宗した異邦人改宗者たちに対して警告を発しています。そして、異邦人改宗者のイエス・キリストを受け入れて救いに入っていることに対して、同胞であるユダヤ人がねたみを起こして、その幾人かでも救いに入れられる結果となることを望んでいると言うのです。

 そして、同胞であるユダヤ人のことを思い、「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。」とユダヤ人が捨てられることによって、他民族で構成されている世界の和解となるとしたら、再びユダヤ人が福音を受け入れて、神に受け入れられるとするなら、それは死んだ人に命が与えられることと等しいのだと言っているのです。パウロは、自分は異邦人に対する責任があるとしても決して自分の同胞たちに対しての希望は捨てていないのです。

 そして、はじめに神様から呼び出された、アブラハムの子孫たちであるユダヤ人たちを麦の初穂に例えて、初穂が聖であれば、練粉全体もそうであると言うのです。そして、元の物が聖であり、支える物であることを根と枝を例にとって話を進めて行くのです。

 もちろん、ここで言われている根と接ぎ木のされた枝とは、神の教えを与えられていた人々と、新たに福音を知らされた人々の比喩であり、神様の呼びかけに従ったアブラハムを父祖とする人々を根とし、そこに出てきた枝が現在のユダヤの人々であり、神様の本来の教えから離れてしまい折り取られてしまったのだと言っているのです。そこに野生の枝であった異邦人が、その代わりに接ぎ木されたと言い。そして、その接ぎ木された人々には元々よい根であった神様の教えから栄養を受けているのだと言うのです。もともとユダヤ人に与えられていた教えが基本となって現在の自分たちが神様からに恵みを受けることが出来るようになっているのであり、折り取られた枝に対しては誇ってはならないのだと言います。

 『「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。 そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。』と言うのです。ここでなぜユダヤ人が切り取られた枝なのか、その原因は不信仰だからだとはっきりと言われるのです。

 不信仰のものに対して神は容赦なく切り取られる、だから思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。と言うのであり、異邦人改宗者に対して、思い上がって、不信仰へと陥ることに対しての忠告を行っているのです。

「倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」だから、神の慈しみと厳しさを考えるようにと言うのです。そして神の慈しみの中にいるようにと進めているのです。

 そして、自分の同胞であるユダヤ人たちに対する希望を、「もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」と述べるのです。

 パウロにとっては、異邦人であろうと同胞であるユダヤ人であろうと関係なく、救われる人が一人でも多くいることが大切なのであり、それを阻むものが、思い上がりであり、不信仰だと言っているのです。

 

 

 

 

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