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ユダヤ人の王なのか

説 教「ユダヤ人の王なのか」岸敬雄牧師

聖 書 詩編17編1~8節 ヨハネによる福音書18章33~40節

 

 本日は収穫感謝を祝う主日礼拝を捧げています。日本では第二次世界大戦以前は、新嘗祭と言って稲の初穂を天皇が自身の神にささげる行事として収穫感謝を祝る行事があり、第二次世界大戦後のは新嘗祭は神道的祭儀であるとして勤労感謝の日となっています。

 私たちが現在教会で祝っている収穫感謝祭のはじまりは、アメリカにあるとも言われます。アメリカ大陸に入植したキリスト教徒が、秋の収穫を祝うので、クリスマス同様に七面鳥料理などでお祝いをしたのが始まりとも言われます。日本のプロテスタント教会の多くは第二次世界大戦後にアメリカの教会の影響を多く受けており、収穫感謝祭も定着したようです。

 もちろん、旧約聖書においても出エジプトの出来事を祝う仮庵の祭りは、麦の収穫時期の祭りだったとも言われます。この時期になるとアドベント・待降節も近いのを感じます。この様な時期に、イエス様がこの地上においでになったことを思い返すことも大切な事だと考えます。

 イエス様がこの地上においでになられたのは、良きおとずれ、救いの福音を私たちにお届けくださることでした。その具体的な行動として私たちのために行なって下さったのが、十字架におかかりになり、私たちの罪を取り去ることであり、神様と私たちを和解させてくださることだったのであります。

 この様に、イエス様が十字架にかかられるまでの出来事の中で、本日のピラト都の出来事はあったのです。

 ピラトはイエス様を呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねたのでした。ピラトは、当時ユダヤ人の住んでいたパレスチナ地域を支配していたローマ帝国から送りこまれ駐在していた行政長官、総督であった統治者です。ピラトの、「お前がユダヤ人の王なのか」との問いかけに、イエス様は「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」と逆に問い返されました。

 ピラトは、ローマから行政長官として派遣されている立場でユダヤ人の王だと思っているのか、それともほかの者が、そのように言っているのを聞いて、私のことをユダヤ人の王だと思っているのかと言うのであります。

 しかし、ピラトは、イエス様の問いかけには答えずに、「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」と言い返します。ピラトは、自分はユダヤ人ではないと言っているのであり、自分は当事者ではないと言って、暗に自分には責任ではない言う態度で、責任放棄しているのです。  

 それに対してイエス様は「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」と言われ、自分の出来事はユダヤに限られないと言われたのです。

その様に言われてピラトは「それでは、やはり王なのか」と問い返すのです。自分はユダヤ人ではないと言って部外者と成ろうとしたピラトは、「わたしの国は、この世には属していない」と言われ、当事者に引き戻されてしまったのです。だから再び「それでは、やはり王なのか」と問い直さざる負えなくなったのです。

 それに対して、イエス様は「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」とお答えになったのでした。その様に言われてピラトは「真理とは何か。」と問い返すのです。もはや、聖書にはイエス様のお答えは乗せられていません。

 イエス様が言われた真理とはいかなるものでありましょうか。その考え方は色々あるかもしれませんが、真理とは、ヨハネによる福音書14章6節では、イエス様ご自身が「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われています。主イエス・キリストご自身が真理なのです。そして、救いへの道なのであります。

 ピラトは、イエス様のことが真理であることを、理解することはできませんでした。しかし、ピラトは「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」と言った様に、イエス様には何ら罪はなかったことは理解でたのです。そして、罪の無いイエス様を処刑する当事者から何とか逃げ出す方法を考えるのであります。

 過越祭にはだれか一人を釈放する慣例となっていました。この慣例を適応して、イエス様を処刑から逃れさせようとするのであります。しかし、民衆はイエス様を処刑して、バラ場を釈放するようにと求め続けるのです。

 イエス様がこの地上においでくださった素晴らしい出来事であるクリスマスに向かうこの時期に、イエス様のご使命である十字架のことを忘れないことは大切であり、イエス様を十字架に掛けたのは、確かに私たちと同じ人間である。もっと言うならば、イエス様を十字架にかけた群衆は、私たち自身の罪をも写し出しているとも言えるのです。その様な、イエス様を十字架に追い立てる様な醜い人間のためにも、イエス様は十字架におかかりになって下さったのです。そして、イエス様は私たちの罪のためにも十字架にお架かりになって下さったのであります。

 イエス様を十字架に掛けたのは、本来神様から呼び出しを受けた、祝福されていたはずのアブラハムの子孫たちでした。今教会に集っている私たちも、神から祝福を与えられ呼び集められたものとして、その事を心に留めておかなければなりません。私たちは、決してそのような主を苦しめることをしない様に、主に従って歩んでいきたいと願うのであります。

 

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