過去の説教

互いに裁き合わない

降誕前第6主日礼拝 

説 教「互いに裁き合わない」 岸敬雄牧師

聖 書 詩編105編37~45節  ローマの信徒への手紙14章1~13節

 パウロは、ローマの教会の人々に対して、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」と呼びかけています。ローマの教会においても、以前コリントの教会であったような、信仰の強いと自称する人たちと弱いと考えられている人たちとの対立があったことが伺えます。

  信仰が弱いとは、どの様な人のことを指しているのかと言えば、「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。」と言っていることから、野菜だけを食べている人の事を指していることは確かです。なぜ野菜だけを食べているかと言えば、おそらくは、偶像に供えられた肉を食べることを恐れてのことだと考えられます。コリントの教会で起こっていた偶像に供えられた肉を食べるか食べないかという議論が、ローマにある教会でも問題となっていたことが伺えるのです。

 信仰が強いと思っている人は、信仰によってなにを行っても自分たちは大丈夫だと考え、その様な事を思うことができない、戒めに縛られているような人を信仰が弱い人だと軽蔑していたのであり、それにたいして、野菜しか食べない人は、信仰が強いと言って戒めを厳格に守ろうとしていない行為は、信仰に反する行為だとしてその様な人たちを裁いてしまっていたのです。

 パウロは、コリントの教会へも言っていたのと同様に、「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」といって、食べることを主張する人々、自称信仰の強いと称している人々と、偶像に備えられていることを恐れてすべての肉をためることまで避けている信仰が弱いと見られている人々、どちらが正しいかと言う明確な判断を下すことを避けて、互いに尊重し合う様にと言うのです。

ただ双方に対して、「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」と神様のみ旨を察して食べる人々には、食べない人たちを軽蔑してないで受け入れるようにと勧め、野菜しか食べない人々に対しては、食べる人を裁かない様にと勧めるのです。そして、人を裁いている人に対して「いったいあなたは何者ですか。」と言って、人を裁くことについての批判を展開して行くのです。

 人を裁くことが出来るのは主なのであり、人が人を裁くべきではないと言うのです。そして、私たちは、本来行うべきことについて、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」と言うのです。私たちが生きることと死ぬことの両極端を示すことによって、私たちがこの人生で行うべき事の全てが主のためなのだと言うのです。

 そして、パウロは私たちの、この人生の中での出来事ばかりではなく、死んだ後の人々にまで影響を及ぼしていることを「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」と言い、キリストの死は生きた人のためだけではなく、死んだ人に対しても影響を及ぼしていることを示すのです。キリストは、全ての人の主であられるのなら、キリストを信じる全ての人が、キリストの従者であるのならば、互いに批判したリ、蔑んでみたり、裁いたりすることは決してあってはならない事なのである、と言っているのです。

 そしてさらに、イザヤ書45章23節とイザヤ書49章の18節を引用して「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」と言うのであります。

 全ての人の目的は、皆等しく主をほめ称えることなのであり、決して争そったり、蔑んだり、裁いたりする事ではないのです。そしてさらに、「それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。」と言うのであります。

 私たちも、自分のことについて神に申し述べることになるのです。自分のことについて神に申し述べる時には、一人一人が責任を取らなければ成らないのであり、人に責任を押し付けることは出来ないのです。

 そして、「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」と勧めているのです。

 神の前で申し述べる時を想像すると震える思いがするのは、私だけでありましょうか。人のつまずきや、妨げとなっていたと思われた時、岩が自分の上に降ってきて覆い隠してほしいと言う様な思いになります。

 そんな私たちに対して、弁護者としてイエス・キリストがおいでくださるのであります。弁護者としてのイエス様がいて下さらなければ到底耐えられるものではありません。だからこそ私たちのために死に、わたしたちのために  生きて下さった主のことを思い、私たちは人を裁いたり蔑んだりはしてはならないのであり、人をつまずかせる石となることを避けて行かなければ成らないのであります。

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