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人の子が現れる日

降誕前第7主日礼拝11月7日(日) 10:30

召天者記念主日礼拝 (聖徒の日)

説 教「人の子が現れる日」岸敬雄牧師

聖 書 詩編39編6~10節  ルカによる福音書17章20~30節

 私たちがなぜ教会に集っているのか、どんな目標、あるいは希望を持って教会へ通っているのかと聞かれたら、皆さんならどのように答えられるでしょうか。私たちが今教会へ集って礼拝を捧げている希望の一つは、間違いなく主イエス・キリストの復活により、私たちにも与えられた復活の希望にあることは確かです。

もしこの地上の生活が私たちにとって全てだとしたなら、私たちの人生はなんと大変な日々なのでありましょうか。私たちがこの地上の死によって全てが清算されるとしたなら、死が免罪符になってしまいどの様な事をしても許される事に成ってしまい、とても無責任な話にもなりかねません。では、私たちの生涯最大の課題となる死に対して、私たちがどの様に対応できるのでしょうか。

 死に対して、私たちだけでは決して何もできはしないのであります。私たちの望みはまさにイエス・キリストの復活にたいしてのみにあるのであります。そして、この復活の望みがかなえられる時は何時かと言えば、イエス様がこの地上に再びお戻りになる再臨の時であります。

 言い方を変えるとするならば、人の子が現れる日、神の国がこの地上に訪れ、神のご支配がこの地上を覆いつくす時の出来事であるとも言えるでしょう。神様のご支配が行き届いた時に私たちの希望である私たちの復活も達成されるのであります。

 復活の希望については、聖書においては、例えばヨハネの福音書11章24節で、『 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。』と書かれているように、イエス様の時代でも、終わりの日に希望を置き、終わりの日に救いが来て、その時の神のご支配が達成され、善人は復活すると言う希望をみんなが持っていたことが類推されます。

 この様に、復活の知識があったことを考えると、ファリサイ派の人々が神の国はいつ来るのかを知らなかったはずはありません。それなのに、イエス様に、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたのは、イエス様を試しているようにも思えます。

 その様な問いかけに対して、イエス様の答えはまさに意外なものでありました。その答えとは、「神の国は、見える形では来ない。」と言うのであります。人々が考えているような形で神の国は来るわけではないと言うのであります。

 では、どのような形で来ると言うのでありましょうか。それは、「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。」ものであり、『実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」』と言われるのです。もうすでに、神の国は来ているのであると言われるのであります。この質問をしたファリサイ派の人は気が付いていないだけだと言うことになります。

 イエス様の言われている意味は、イエス様の御業こそが、神の国のおとずれを示しているのであり、あの十字架の上でながされたイエス様の血潮こそが私たちの罪を贖い、十字架上で命を落され、墓に葬られ、三日目によみがえられたその御業によって、神様のご支配は体現されているのです。

 ただ神のご支配が完成される日は、イエス様がこの地上に戻って来られる時であり、弟子たちに、「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。」と自分が天へと帰った後のことを言われた後に、「『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。」と警告を発せられるのであります。

 さらに、ノアの時代のことやソドムの出来事を引き合いに出して終わりの時について、注意を怠らない様にと警告しているのであります。

 私たちは、今一度この神の国、神のご支配について、そして、その完成の時である、イエス・キリストが再びこの地上にお越しになる時のことを召天者記念礼拝において御言葉から再確認することは、この復活の希望、そして神のご支配がこの地上にくまなく行き渡ることへの希望は、今私たちだけの希望ではなく、今は亡き信仰の先達たちの希望でもあるからであります。

 生者、死者の区別のない希望であり、まさにクリスチャン全ての希望です。そして、この希望を私たちの信仰の先達たちはその生涯で証してくださっているのであります。一人一人の人生は、それぞれ別々であり色々な体験や経験をしながら過ごした人生であったかもしれませんが、クリスチャンとして生きた人々に共通した証しとして、復活の希望は、人生を支えていたのです。

 決して難しいものでは無く、主に従って、喜んで生きて行く時に自然と実感できるものであり、私たち一人一人が経験できることなのです。そして、この復活と神のご支配が完成する時、それは、人の子が現れる日であり、私たちは希望を持って待ち続けている出来事なのであります。

 

 

 

 

 

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