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信仰により

 

説 教「信仰により」岸敬雄牧師

聖 書 詩編145編10~13節  ローマの信徒への手紙3章21~28節

 本日10月31日は宗教改革記念日です。宗教改革によって生まれたプロテスタント教会に属している札幌中央教会においても大切な日と言う事に成ります。

 宗教改革時は、キリスト教会内も大分混乱状態にあったと言えましょう。その様な状況の中から、宗教改革者たちは、改めて聖書のみに立ち返って、宗教改革を進めて行ったのであります。そして、宗教改革者が大切にしていた一つが神の義です。

 本日の聖書箇所においても「神の義が示された」と言うのであります。神の義とは何でありましょうか。神の義は、神の正義、神の正しさと言って良いのではないでしょう。

 この神の義が示されたことは、どの様な効果があるのでしょうか。それは、人間が罪人であり決して正しくなることができないことに対して、その様な人間の罪が神の義によって取り去られたことを言っているのです。

 「今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」と言うのであります。神の義が示されるにあたって、律法と関係ないにもかかわらず、律法と預言者によって立証されているとは、何か矛盾しているように思われるのですが、ここで言っている律法と預言者とは、律法の書と預言者の書に代表される旧約聖書のことを指しているのであり、神の義が旧約聖書で立証されていると言っているのです。それも律法とは関係がないと言うのです。

 それなら、何によって神の義が示されたと言うのでありましょうか。それは、イエス・キリストを信じることによるのだと言い、その義は、イエス・キリストを信じる者に、すべての者に与えられる義であると言うのであります。そして、この義を与えられる者には何の差別もないと言うのであります。

 人の現状について、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」と言う状況にあるといいます。人は皆、罪を犯しているのであり、罪を犯さなかったお方はイエス様お一人です。アダムの咎に起因するものとして、旧約聖書から言い伝えられている様に、現在すべての人に罪があると言えるのであり、現在の私たちの実生活を通じても、罪を犯さない者が一人もいないことは実感できることなのではないでしょうか。

 それであるにもかかわらず、神の義がイエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられると言われているのであり、それも、イエス・キリストを信じることにより、神の義が与えられることには何の差別もないと言うのであります。

 今以上に差別が激しかったであろう約2000年前にです。男も女もどの様な階級の人であるか、何の職業か、その様な事は一切関係ないのです。ここで大切なカギとなっているのはイエス・キリストを信じること。イエス・キリストを信じる信仰こそが大切なのであります。

 イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちはイエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みによって無償で義とされるのです。私たちが何を行ったからではなく、私たちがどの様な人間であるかも関係なしに神の恵みにより、無償で義とされるのです。

 罪人である私たちのために神の恵みにより無償で義とされる。それは、イエス・キリストによる贖いの業を通してであり、このイエス・キリストの贖いの業とは、神の業であり、キリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物とされたのであります。

 あの十字架の上に御自分の独り子であるイエス・キリストをあげ、苦しみの挙句、血を流させることによって、その十字架上でも御子イエス・キリストの血によって私たち罪人の罪を贖って下さり、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになられたのです。

 それは、今まで人が犯した罪に対する正義と神の義が両立することをお示しになるためにです。それはまさに、神の恵みにより無償でキリストを信じる者が義とされたのです。

 旧約聖書の時代からイエス様の時代に至るまでの、イスラエルの人々は、自分たちが神から選ばれた民だと言う誇りを持って生きてきました。その誇りの根拠は神様との契約であり、神様から与えられた戒めを守ることによって神様から祝福を受けると言う約束だったのです。

 そのような選民思想を持つ人々の誇りはどうなったのか、それは取り除かれたのだと言うのです。誇りを取り除いたのはその基となっていたどんな法則によってか。行いの法則によるのかと、問いかけと後にそうではない、「信仰の法則によってです。」と自ら答えを出すのであります。

 主に対する信仰の法則によって律法や行いの法則によらずに、今まで誇りとしていたものは、みな取り去られたと言うのであります。そして、最後に「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」と結論を出すのであります。

 人が義とされるのは律法を守ると言う様な行いによるのではなく、主を信じる信仰によるのであります。神の義に対して、私たちにどれほどのことが出来るでありましょうか。出来ることなど限られたことであり、大切なのは、主の行って下さった御子による贖いの業であり、それを信じる信仰なのであります。

 

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