過去の説教

あなたがたも聞いているとおり

降誕前第9主日礼拝

説 教「あなたがたも聞いているとおり」岸敬雄牧師

聖 書  レビ記19章13~18節 マタイによる福音書5章38~48節

本日のマタイによる福音書の初めの部分でイエス様も言われているように、あなたがたも聞いているように、と言われている様に、戒めは広く人々に知れわたっていました。

 現在でも法律や社会的な決まりは沢山ありますが、イエス様がこの地上に居られた時代にも多くの決まり事、律法や戒めがありました。本日の聖書箇所も、その様な律法など戒めについて語られている場面です。

 旧約聖書のレビ記19章は、十戒の戒めと重複するような内容の多く含まれていますが、あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。行なってはならないことを並べた後に「わたしは主である。」と言われるのです。その他にも、あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。

 民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。など色々の戒めを言っていますが、その様な戒めを総括して、おそらく大変有名な言葉である「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」と言う言葉で締めくくられているのです。

 イエス様も福音書の中で「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」と言う言葉を引用されています。

マタイによる福音書7章12節、ルカによる福音書6章31節においても、その内容が引用されていますし、ヤコブ書2章8節においては、『もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。』と言う様にこの言葉が引用されています。

 新約聖書でもこの様に有名であった言葉によって、自分を愛する自己愛が他人に対する態度の基準になるのだと言うことを、「わたしは主である。」と言う言葉によって、この戒めを与えているのは主ご自身であることを旧約聖書においても強調して語られています。

新約聖書においても、イエス様が自分自身を愛するように隣人を愛する戒めについて語っておられます。それに加えて、初めに旧約聖書でも言われている戒めと、これから自分が伝えようとしている戒めを対比しています。

 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられているのです。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

   自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」イエス様は、天父なる神が完全であられるように私たちも完全になるようにとまで言われるのです。

 本当にそのような事が出来るのでしょうか。残念ながら私たちの暮らしている世界はそれが実現できるような理想郷ではなく、むしろ弱肉強食の世界に近いのではないかと疑問を抱きたくなります。

 むしろ現代よりもイエス様がこの地上におられた時の方がひどかったのではないでしょうか。そんな時にイエス様はこのような戒めを与えたのです。

 そして、この戒めを守ってきたクリスチャンたちは、多くの迫害にあい十字架に掛けられたり、猛獣の餌食にされたりしながらも、日本の江戸時代のようにキリシタン禁止令で壊滅的になったと思えても、イスラーム勢力の侵攻でキリスト教が壊滅したように思われる地域があったとしても、キリスト教は、決して撲滅されることなく大きく広がっていったのであります。歴史がイエス様の教えが正しかったことを示している事実なのです

 私たちもイエス様の言われている戒めを守っていくことは、到底無理だと思えることの連続ではないでしょうか。そんな、人には到底無理な事であっても神様にはお出来になるのであり、私たちは、神様に寄り頼んでおこなっていくのです。人の力によってではなく、神様の力によって。

 

 

 

 

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