過去の説教

                  説 教 「キリストの手紙」             岸 敬雄牧師

聖 書  詩編62編6~9節 コリントの信徒への手紙二3章3~9節

 本日のコリントの信徒への手紙の中でパウロは、コリントの教会員に対して、「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。」と語り掛けているのです。パウロがここで言っている手紙は特別な手紙です。普通手紙とは、紙などに鉛筆やボールペン、今ではパソコンで書く人がいるかもしれませんが、紙などに書くのが普通だと思います。。でも、この手紙はコリントの教会員自身が手紙だと言うのです。どの様な手紙なのでしょうか。

 そして、パウロはこの手紙は、公にされていると言っています。みんなによくわかるように公開されていると言っているのです。では、この皆に分かるようにされている手紙には、どの様な目的があって、どの様な事が書かれていたのでしょうか。そのことを知るために、はじめにこの手紙の書いた人についてパウロは、キリストだと言っているのです。そして、この手紙をどの様に書いたかと言えば、私たち、すなわちパウロたちを使って書かれたものだと言うのです。

 整理してみると、この手紙の本来の書き主はイエス・キリストご自身であり、どの様にして書いたかと言えば、パウロたちを使って書いて、何に書いたのかと言えば、コリントの教会員の心の板に書いたと言うのです。そして、この手紙は公にされているのです。

 では、この手紙の内容はどの様な物だったでしょうか。それは、本日読んでいただいた箇所の一節まえ、3章2節において「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。」と言っているように、この手紙は公に向かってのパウロたちの推薦状だと言っているのです。

 このパウロに対する推薦状の内容は、それはパウロが使徒の職にある者であるという推薦状です。パウロが使徒として働く資格のある者であり、その働きをしているものだと言うことをみんなに示すイエス・キリストからの推薦状が、コリントの教会員の心の板に書かれているのだと言っているのです。

 そして、この手紙の内容はパウロたちが伝えた福音であり、新しい契約、新しい戒めであったと言って良いでしょう。コリントの教会員一人一人の心の板に書かれた手紙の内容がったしい主イエス・キリストの教え、福音だったから、それが公にされることによって世の中に対してパウロたちは正しい福音を伝える者の推薦状にコリントの教会員が成っているのだと言うのです。

 そして、コリントの教会員の心の板に手紙を書きつける時には、普通に教育するような形ではなく霊の力によって、言い換えれば聖霊の力によって心の板に書き込まれたのだと言っているのです。さらに話は、心の板と、石の板を比べながら、そこに書かれたものを比べることに移っていくのです。

 ここで、石の板と言うと思い出されるのが、十戒を念頭において書かれていることは確かでありましょう。すなわち石の板と霊によって書きつけられた板とは、古い教えや戒めとイエス・キリストによって与えられた新しい教えや新しい契約との対比を行っているのです。

 そしてパウロは、「わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。」と言うのです。どの様な確信を持っているかと言えば、「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。」と言い切るのです。

 古い文字に仕えるのではなく新しい契約に仕える資格、霊に仕える資格が与えられ、そのことについてみんなに伝えていたのだと言っているのです。もちろんここで言っている霊とは、神の霊の事であり、聖霊に仕える資格を与えられたと言い換えても間違いないものと思われます。そして、古いものと新しいものについての違いについて、「文字は殺しますが、霊は生かします。」とまで言い切るのです。

 文字が象徴している古い律法や戒めは、結果的には人を罪に定めることは出来ましたが、生かすことが出来なかったと言っているのです。しかし、これまでユダヤの人々が守り続けてきた律法や戒めなどについても全面否定しているわけではなく、その有用性は認めつつ、「石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほど」だったと認めているのです。

 しかし、「霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。」と言って霊に仕えることの方の優位性を説くのです。それと同様に、二つを対比して「人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。」と言い切るのです。パウロは自分に対して神様から与えられた働きについてなお一層の誇りを示しているのです。

 私たちもパウロが誇りとしているように主の業に携わる者としての誇りを持って、公に対して胸を張って進んでいきたいと願うものであります。そのためにも、私たちも神の霊、聖霊の力によって導かれて行かなければ成らないのであります。私たちも、主イエス・キリストと聖霊の力をよりどころとして日々進んでいくのであります。

 

 

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