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四千人の給食

説 教  「四千人の給食」    岸敬雄牧師

聖 書  申命記8章7~10節  マルコによる福音書8章1~9節

 

 本日の四千人に食物を与える給食の奇跡については、マタイとマルコの福音書に書かれているのみです。五千人の物語と四千人の二つの給食の奇跡物語が、初めに書かれた福音書とされるマルコの福音書にあるのは、一つの給食の奇跡を五千人の物語と四千人の物語に分けて書いたとみる見方もあります。

 だからこそ、その後に書かれたルカによる福音書では四千人の物語を省略したのではないか言うのです。しかし、それでは、ルカの様に四千人の給食の奇跡については必要ないのでしょうか。そうではないと考えてマルコは自分の福音書の中に、この四千人の給食の奇跡物語を残しているのではないでしょうか。そこにはそれなりの理由があったのではないでしょうか。五千人の給食の奇跡物語と四千人の給食物語を比べながら見ていきたいと思います。

 まず一つとして上げられているのが、五千人の給食はガリラヤ湖畔西岸すなわちユダヤの地で行われたのに対して、四千人の給食については、「そのころ」と言う言い方で、どの時期、どこの場所でこの奇跡が行われたかについては、はっきりと語られていません。そのために、この出来事はガリラヤ湖へ向かう途中の異邦人の地であるデカポリスの地方で行われたこという見方をする人たちもいます。

 五千人の給食の話と同じガリラヤ湖畔とはっきりしなかったのかは、五千人の給食は、ユダヤ人に神様の恵みが示されているのであり、四千人の給食は異邦人の地であるデカポリス地方において、ユダヤ人と同様に異邦人にも神様の憐れみと大きな奇跡の力が示されたのだと言うのであります。そして、この人の業では絶対不可能な給食の奇跡が行われたことについてどの様な意味があったのでしょうか。

 一つとしては主イエス・キリストをしたってきた人々に対して、イエス様が見捨てるようなことはせずに、恵みを与えて不足を満たして下さった奇跡と言うように見ることが出来るでしょう。

 イエス様は慈悲深く、多くの人々に対して心を砕いで必要を満たして下さっているのです。私たちもイエス様についていく時に苦難に会い不足が招じた時にもイエス様が満たして下さる、その様に確信を持たせて下さる話しとして取ることが出来ます。しかし、それと共に、この給食奇跡に対する弟子たちの霊的に鈍い様子が示していると言えるのです。

 五千人の給食と四千人の給食を比べてみると、五千人の給食では、弟子の方から人々を解散させて各々食べ物を買いに行かせてくださいと言い出していますが、四千人の給食ではイエス様の方から「「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」と切り出されるのです。会衆が空腹となったのは五千人の給食の時の様に遅い時間からではなく、3日もイエス様一行と共に行動していたからであり、食物はこの3日の間に尽きてしまったのです。そんな中で、イエス様が「空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」と言われたのです。

 すると弟子たちは当惑して、「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」と答えるのです。

 ここで五千人の給食の時にイエス様が見せられた奇跡の恵みに対しての理解は全く示されていません。逆の言い方をすれば、ここでの弟子たちの無理解、不信仰の表れが示されているのです。

そこで、イエス様がパンを受け取り、讃美の祈りを捧げて配るとみんな満足して、残りのパンくずが七籠になったと言うのです。そして、「およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた」とだけ言われるのです。

 そのことは、その後の船の中でファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に気を付けるように言われた時、五千人と四千人の給食の時のことを語られて8章21節で「まだ悟らないのか」と言われている通り弟子たちの悟る力が衰えていたことがこの場面でも示されています。

 五千人の給食についても6章52節で「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と弟子たちの無理解と心が鈍くなっていたことは語られています。弟子たちはみな無理解で心が鈍かったのです。

 もしこの様な無理解な弟子たちがそのままであったなら到底救われるように思われません。そんな弟子たちが教会の頭となり主の福音を伝える者と変えられていったことを福音書は示しているのです。

 彼らの姿は、私たちにとって救いなのではないでしょうか。イエス様の周りにいた弟子たちは、漁師や取税人など、当時とても博学と思われていた人々ではありませんでした。

 その上イエス様の示された奇跡にも鈍感であった、その様な人たちを神様は用いられて神の業を勧められていったのです。それは、この福音を伝える御業は人の業ではなく、神の業であることをはっきり示しているのです。

 私たちもこの神の業に参与して福音を伝えていくのであります。自分の力ではなく神の力によって。

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