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信仰とは

     説 教    「信仰とは」     岸敬雄牧師

聖 書  創世記5章21~24節   ヘブライ人への手紙11章1~7節

 信仰とはどのようなものですかと聞かれた時に、頭に浮かぶのはどの様な事でしょうか。色々な答え方があると思いますが、信仰とは、私たちに必要なものであり決してなくなることのないもの。色々なものに対して信じることであり、対象は多様にあるものである。などと色々答える人もいるかもしれません。

 私たちクリスチャンにとって信仰は、その対象となる、父、子、聖霊なる三位一体の神に対して、その神を信じ、その教えに従うことが、信仰となるではないでしょうか。

 しかし、日本には、キリスト教徒より圧倒的に多くの他宗教の方々がおられ、極端に言えば、自分は無宗教だとか言って、自分が何を信じているかもわかっていない方々もいらっしゃいます。その様な人々に対して、父、子、聖霊なる三位一体の神に対する信仰の話を始めてもなかなか説明するのは難しいものがあると思います。

 神を信仰する。その信仰について説明する時に、本日の聖書の最初の部分「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と言う言葉は、役に立つのではないでしょうか。そして、信仰の対象として私たちが何を望み、どの様な事を確信しているかについて、説明して行けば良いわけです。ヘブライ人への手紙11章においては、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」と言っています。

 「神の言葉によって創造され」と言われると、ヨハネによる福音書1章3節で「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」と言う御言葉を思い浮かべる方もおられると思います。ヨハネの場合の「言」(ことば)は、イエス・キリストを指していることははっきりしています。しかし、ヘブライ人への手紙の神の言葉をそこまで言い切れるかは、はっきりしませんが、この世界すべては神のお力によって出来たものであり、眼に見えたものによって創造されたのではないと言っていることは確かです。

 さらに続いて ヘブライ人への手紙では、信仰について説明するにあたって望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認した人の例として旧約聖書に出てくる人々を挙げて説明していきます。

 昔の人たち、すなわち旧約聖書に登場してくる人々は、信仰により神様に認められたことについて、カインとアベルの物語から語りはじめられます。聖書の最初の書である創世記に出てくるカインとアベルの兄弟の事件を信仰によって解釈するのです。

 その事件とは、アダムの息子とであるカインとアベルの物語であり、兄カインは地を耕す者となり、弟のアベルは羊を飼うものとなりました。それぞれ神様の前にカインは地の実りを、アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持ってきて捧げたのでした。しかし、アベルの捧げものには神は目に留められたが、カインの捧げものには目を詰められなかったのです。

 このことに、カインは激しく怒って弟のアベルを殺してしまうのです。この兄弟殺しの出来事を信仰の問題としてヘブライ人への手紙は語るのです。

 アベルはカインより優れたいけにえを神に献げたことにより、優れた信仰を持っていたに違いないと言うのです。そして、死後もアベルの血は神を呼び求めていた事により、死んだ後もアベルは信仰を示していたと言います。なぜその様になるかと言えば、叫び求めるのは、神が叫びを聞かれ、その求めを満たされるであろうと言うことを確かに希望し確信しているからである、と言うのであります。

 そして、次に例として挙げられるのは、本日読んでいただいた創世記5章に出てきたエノクについてです。エノクは三百六十五年生きた、と書かれています。今から見ても長寿だと思いますが、長寿は神様から祝福されている徴だとされたうえに、エノクは死を経験しないで、天に移されたのであり、この地上では三百六十五年生活していたと言うことになるでしょうか。エノクはこの地上での生活を神と共に歩んだ、信仰を示し続けたからこそ、神が取られたので、いなくなったのだと聖書は言っているのです。

 そして、三番目の信仰の証拠として洪水の物語で有名なノアが出てす。ノアは神様からのお告げを受けてから、まだ雨が降り出すなど、何も始まっていないと思われる時から、神に対して恐れかしこまりながら自分の家族を救うために箱舟を造りはじめたのでした。それはまさに、神様に対する信仰に基づいた行為だったのです。だから、「その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」と言うのであります。

 さらに信仰者の証言者としては、父祖であるアブラハムやイサク、ヤコブの名前を挙げて語り続け、そしてモーセについての信仰について語り進めていくのです。

 私たちにとって、旧約聖書の人々以外にも多くの信仰の先達たちがいて、私たちはその模範を見習いながら進んで行くことが出来るのでありましょう。私たちの信仰にとって主イエス・キリストは基であり、さらに言えば、主イエス・キリストへの信仰が私たちの人生の指針であり支えなのです。今週も主に従って主イエス・キリストへの信仰を力として歩んでまいりましょう。

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