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十字架のほかに

聖霊降臨節第18主日礼拝

説 教 「十字架のほかに」  岸敬雄牧師

聖 書 詩編142編2~8節  ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節

 

  パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の最後の結びとして「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」と言っています。何故そんなことを言うのでしょうか。パウロは普通は手紙を口実筆記によって書いていたと言われます。自分で書いていたのは最後のサインぐらいだったと言うのです。なぜそのような事をしたかと言えば、パウロ自身、目が悪かったのではないかと言われています。そのため、普段は手紙は他の誰かに代筆してもらいたというのです。

 その様なパウロですが、「今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」と言うのです。苦労してでも自分自身で書き送りたいことが、ガラテヤの人々に対してあったのです。それほどまでに大切な事とはどのような事だったのでしょうか。それは、「 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」と言うのです。

 ガラテヤの人々に対して、無理やり割礼を受けさせようとしている人たちがいて、それは肉において人から良く思われるためだと言うのです。そして、その結果としてキリストの十字架のゆえの迫害を免れることが出来る、とその人たちは考えていたのです。

 それでは、なぜ十字架のゆえの迫害を免れることが出来ることが出来るのでしょうか。それは、割礼を受けさせることにより、アブラハムに神様から与えられた戒めを守っていると示しユダヤ人たちに対して、自分たちはユダヤ人として政党に戒律を守っていることを証明しようとしていたのです。

 しかし、無理に割礼を受けさせようとしている者たちは、自身は 割礼を受けている者であるにもかかわらず、自分たちは、実は律法を守っていなかったとパウロは言うのです。そして、あなたがたの肉について、すなわち肉につけた割礼の徴を誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいるのだとともパウロは言っているのです。

 しかし、パウロ自身は、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」と言切るのです。私たちが誇るのも、主イエス・キリストの十字架のはかには決してありえないのであり、あってはならないのです。神様との契約の民としての徴として与えられていた割礼の様な人の肉付けられている徴を誇るのではなく。誇るべきものは主イエス・キリストの十字架なのです。

さらに話を進めて、だからこそ 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることだと言うのであります。イエス・キリストの十字架の贖いにより、新しく創造される事が大切なのです。

 私たちが新しく創造されたのは、どの様な機会だったのでしょうか。もちろん神様からの招きを受け入れ、悔い改めて、神様に従って新たな生を歩みだした時であり、その象徴として行われるイエス・キリストの死と復活を象徴する洗礼を受けた時なのです。私たちが生きて行く源は、この洗礼により新たにされることであり、神様につき従って歩んでいく人生にあるのです。

 この神に召された人生に対して、パウロは「このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。」と言って賛歌を主に捧げるのであります。神のものであるイスラエルの上に平和と憐れみがある様にと。

 さらに、パウロは、「 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。」と言います。パウロにとってこれまで、ユダヤ人としての選民意識の象徴の様な割礼について、多くの問題があり、悩みの種となっていたことが伺えます。そして、パウロは、「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」と言う様に割礼についての問題に結論を出したのでした。

 パウロは、「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」と言い、イエスの焼き印とは、キリスト者として迫害のために身に受けた傷跡を指し示しているとも言われますが、それとともに、イエス・キリストの奴隷としての徴としての焼き印を身に受けていると言うのであります。

 西部劇など見ていると牛などには焼き印を押すのは普通の様に行われていたようですが、聖書の世界においては焼き印は奴隷の徴であり、羊や牛、ヤギなど家畜も傷が無いのもがよいものとされたおり、自分からやけどのような傷をつける焼き印は行わなかったのではないかと思われます。 

 パウロは誰にものではない、自分はイエスの奴隷であり、その持ち物なのだと言いたげに、奴隷にその徴として使われていた焼き印、聖書の中でほかにテモテへの手紙一4章であと一ヵ所使われているだけのことばである焼き印と言う言葉を敢えてここで使っているのです。

 そのように普通は使われない言葉を使ってまでパウロは、割礼と言う傷圧よりキリストの徴の方が大切であることを示しているのであります。そして、パウロは最後に「 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。」と神の祝福を願うのです。

 私たちも、主イエス・キリストの恵みを私たちの霊に受けて、この肉なる体が衰えて行こうとも、決して衰えることのない神からの恵みをうけながら、主の十字架を仰ぎ見ながら喜びに満たされ日々歩み続けて行くのであります。

 

 

 

 

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