過去の説教

自分を低くして

聖霊降臨節第17主日礼拝 9月12日(日)

説 教 「自分を低くして」  

聖 書 詩編32編5~7節   コリントの信徒への手紙二11章7~15節

 

 コリントの信徒に向かって、パウロは戦っていることを示してして、さらに戦いを続けて行くと宣言しているのです。では、だれと戦っているのでしょうか。その相手とは、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っている偽使徒たちだと言っています。

 そして彼らがどの様な事をしたかと言うと、本日読まれました場所の前の部分の4節で「なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。」といっています。

 コリントの教会の人々は、この様な、パウロたちと述べ伝えた福音と違う福音と称するものや、違う霊について述べ伝える人々の教えの脅威のさらされよく我慢していたのです。

 その様なパウロたちと異なる教えを教えている人々の目的は、「わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらって」いたのだと言っています。

 その偽使徒たちの影響力が広がっていたにもかかわらず、パウロは偽使徒たちに対して、ある面で弱点を持っていたと言えます。どの様な弱点かと言えば、パウロは、イエス様と共に初めの頃から行動を共にし、イエス様がこの地上に居られた時から使徒に任じられていたていたペトロやヨハネの様な使徒達と違い、パウロ自身が使徒として召されたのは、同じコリントの信徒への手紙二の1章の書き出で、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」と自己紹介しているように、直接神様から召されたと言うのです。

 もっと端的に言い表している場所としては、ガラテヤの信徒への手紙の書き出し部分1章1節の自己紹介では、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」と言っています。

 パウロは、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたのであり、誰か人間の推薦状によって使徒となったわけではないので、他の使徒達とは違い、人を通した使徒としての証明が少なかったとも言えます。

 偽使徒達が、聖書の他の箇所などを見てみると誰からの紹介状かはわかりませんが、本物か偽物かはわかりませんが、誰かからの紹介状を持っていた可能性すらもあったのです。そんな偽使徒たちが、自分たちが使徒となったのは神様から直接使徒として召されたと言ってパウロと同じではないかと言われたら、言い返し辛い面があったのです。

 その様な不利な状況からパウロは、神様の業として、実際に自分が働いてきた様子を例に挙げることによって真の使徒であることを示そうとしていたのです。「 それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。」というのです。ここで、無報酬で自分を低くして神の福音を告げていたことに対する批判があったことが分かります。もっと言うならば偽使徒たちは自分が福音と称するものを金儲けの道具として利用していたことすら考えられます。

 それに対して、パウロはコリントの人々に奉仕するために、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも生活費を手に入れ、コリントの人々には負担を掛けてはいなかったと言うのであります。

 たとえ偽使徒達のパウロに対する妨害行為があるとしても、その他の迫害やいかなる障害があるとしても、パウロは自分が行ってきた 宣教の業は、妨げられないことを「わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。

このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。」と言い切るのです。

そして、その根拠はどこにあるかと言えば、それはパウロの内にあるキリスイの真実であり、主イエス・キリストの十字架にあることは確かであります。自分が述べ伝えている福音は、まさに主イエス・キリストの福音であり、唯一御一人の天父なる神の福音なのだという自信があるのです。その上でアカイア地方で妨げられることは決してないのは、「 なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。」と言うのです。もちろんパウロはあなたがたを愛していると言いたいのですが、それは言うまでの無いことであり言わなくても神様がご存じなのだと言うのです。全ての根拠を神様においているのです。

 だからこそ、最後に偽使徒達に対しては「だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」と言い切れるのです。目の前にある偽使徒たちの影響は決して少なくはなかったと考えられますが、それであるにもかかわらず大したことではないと言い切るのです。

 私たちにも、神様の最終的な救いにあずかることに希望を置いて、目先のものに惑わされることなく、真の神様のみ旨に従いながら、私たちも自分を低くして、人に仕えることによって、神様の御業を確かに実践して行きたいものであります。

アーカイブ