過去の説教

安息日であっても

説 教 「安息日であっても」  岸 敬雄牧師

 聖 書 詩編122編6~9節  ルカによる福音書13章10~17節

 

 安息日に、イエス様がある会堂で教えておられた時の出来事です。イエス様の当時はシナゴーグと呼ばれた会堂があり、そこで今日の私たちの教会の様に安息日には礼拝などが行われていました。本日の会堂には、イエス様の教え聞いている人たちが集まっていたのであり、良くも悪くもイエス様に関心を持っている人々が集まっていたことになります。

 そのような人々の中に、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいたのでした。当時の考えの中には病気は悪い霊により引き起こされる禍だと言う考えがありました。この女性がどの様な病気だったかと言うことは、外見から言えば腰が曲がったままでどうしても伸ばすことができなかった、と書かれいるだけでした。。

 そして、この女性がどの様な信仰を持っていたのか、これまでどの様な生き方をしてきたかなどについては、一切書かれていません。ただ、 イエス様はその女性を見て呼び寄せたことが語られているだけです。そしてイエス様がこの女性の上に手を置かれ「婦人よ、病気は治った」と言われ、そしてイエス様の癒しの恵みの恩恵にあずかることが出来たのです。そして、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美したのでした。

 真っ先に賛美したのでしたことから、イエス様の教えをしっかりと理解していたものと考えられます。なぜなら、目の前の癒しを与えて下さったイエス様に対して感謝を捧げたのではなく、イエス様を遣わして下さった神様に対して讃美を捧げてたからです。

 私たちでも、イエス様の弟子であるペトロやパウロが目の前で病やけがの癒しの業を行っておられたとしたら、目の前でその行為を行っている人に感謝をするだけで終わってしまいそうです。しかし、確かににこの恵みを与えて下さる方が神様であることを理解し、本来この婦人が行った様に癒しの恵みを与えて下さった元となっている御方である神様に賛美を捧げるべきなのではないでしょうか。

 この様に癒された女性は正しく理解していたにもかかわらず、イエス様が語っていた会堂の会堂長は、イエス様が安息日に病人を癒されたことに腹を立て会衆にこの様に言ったのでした。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」と、なぜ安息日に病人を癒すことに対して腹を耐える行為だとおもな綿のでしょうか。

 それは、病人を癒す行為も働く行為だと思われ、安息日には働いてはいけないと言う戒めを破る行為だと言うのであります。安息日に働いてはいけないと言う戒めは、モーセに与えられ、以後のイスラエルの民の生活規律の中心となっていた十戒、おそらく有名なのは出エジプト記の20章にある戒めになりますが、出エジプト記4章8~11節にある安息日に対する戒めになります。

「 安息日を心に留め、これを聖別せよ。 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」とある通りです。

 安息日に働くことは許されていないのだから、病気を癒していただくのも、癒す行為を行って下さる方を働かせることとなってしまうので、安息日以外の6日の間に来て癒してもらえと言っているのです。

 そのことについて、癒された女性にでもなく、癒しの業を行ったイエス様に対して直接言うのではなく、会衆に向かって言ったのです。直接力あるお方に文句を言うのではなく、まず会衆に語り掛けて、自分の意見に対して会衆の賛同を得て、会衆の力を借りでイエス様に対抗しようとしたのです。

それに対して、イエス様が直接答えられたのでした。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」と言われたのであります。

 偽善者たちよ、あなたたちはと言われていることから、安息日に癒されたことに反対した人々は一人ではなく多数に成っていたことは分かります。その様なイエス様の癒しの行為に反対する人々に対して、安息日に働いてはならないと言っていても「牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。」と、牛やろばを飼うためには餌をやったり水はやって世話をすることは行っているではないかと言うのです。癒された女性に対してアブラハムの娘と呼び、神様から呼び出されたアブラハムに繋がる恵みとして与えらたことを示し、「十八年もの間サタンに縛られていた」といっているのであり、病気に十八年もかかっていたことを本来知らないはずのイエス様に指摘されて、その苦しみから解き放つことは、日常の家畜の様に、いえそれ以上に必要な御業であると示しているのです。

 この様に正しいことを指摘されて、イエス様に対して反感を抱いていた人たちは皆恥じ入ったのですが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだのでした。私たちも安息日の主が誰であり誰に従い続けて行くのが正しいかを理解し続けるべきなのです。安息日の主でもあり私たちの救い主であるイエス様につき従って行くのです。たとえ安息日であっても。

 

 

 

 

 

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