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「宝探し」 

説教 「宝探し」   

                                  札幌手稲教会 牧師 原 和人

聖書 コリントの信徒への手紙二4章7~15節

 

 パウロは「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」と語る。「宝」とはいったい何か。マタイ6:19以下には、イエスが「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」と語るが、この「富」は古代ギリシャ語で読むと、今日の箇所の「宝」と同じ言葉である。「虫が食う」、「さび付く」から想像すると、「宝」や「富」は、いわゆる「物」や「品」のことと考えて良い。

 以前、牧師同士が集まる会で「お宝自慢」をしたことがある。先祖代々受け継がれてきた聖書や、高名な神学者のサイン入り絶版本などがあり、それぞれに「物」や「品」のお宝はあると感じた。

 私は、そういう「宝」はない。だが、大事な物が一つある。それは32年前に、高校教師がくれた手紙。素行が悪かったときに出会い、立ち直ったときにくれた手紙である。内容は「自分の罪を背負いなさい。そして他者の痛みを背負いなさい。そして死ぬまで生きろ。されば笑って死ねる。」

 この手紙が、私にとっての「宝」。この宝は、人は変われるという希望の記憶と結びついている。だから、手紙は無くなっても構わない。彼と共に過ごした半年間と最後の結実としての手紙の内容。これらの「記憶」が私の宝である。

 では、パウロにとって「宝」とは何か。4節の「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」がそれであろう。端的に言えば、パウロが宣べ伝えている「イエス・キリスト」であり、6節の「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました」という事実である。これは私達の宝でもある。

 その宝は「土の器」に納められている、とパウロは語る。『テモテへの手紙二』2章20節に「大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます」とあるように、「土の器」とは、パンや野菜などを入れるごく普通の容器のことを指し、また、聖書においては精神的・肉体的な「弱さ」の比喩でもある。

 1章8節から9節に、パウロはこれまでに自分とその仲間たちが被った「苦難」について記し、「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。」と書く。また、7章5節には、「わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです」と率直に告白する。人間は誰でも「土の器」のように傷つき易い心と壊れ易い肉体を持つ。人生の困難に出遭って「生きる望みさえ失う」というのは、多くの人に共通する経験であり、パウロも例外ではなかった。

 だが、それに続けてパウロは8節でも「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、…打ち倒されても滅ぼされない」と語る。一体、この不思議な力と言葉はどこから来るのか。

 7節の「この並外れて偉大な力は神のものであって、わたしたちから出たものでない」というのが、パウロの答えである。これは、パウロが絶えずイエスの死と復活を見上げていたところから出てきた言葉に違いない。愛のために御自分の命を捧げたイエス。そして、絶望的な死の中から復活されたイエス。それ故に、わたし達をこよなく愛し、如何なる苦悩や痛みも理解してくださる方。皆が安寧に生きるためのヒントをくださる方。

 この方を見上げるとき、パウロは「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現われるために」と言う他はなかった。

 私達は弱いときもあり、強いと勘違いしたりする、精神的・肉体的な「弱さ」を持つ土の器である。しかし、その中に愛のために全身全霊を投じたイエスが、絶望から希望への道を歩まれたイエスが宝として存在する。わたし達

1人1人の弱さの中にこそイエスはいてくださる。そしてイエスはわたし達を支え励まし、光を当ててくださる。その様な宝を何時如何なる時も探し求めていきたい。

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