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「秘められた計画」

 説 教 「秘められた計画」  岸敬雄伝道師

聖 書   詩編30編11~13節 ローマの信徒への手紙11章25~32節

 パウロは、ローマの兄弟たちに対して、「自分を賢い者とうぬぼれないように、秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。」と言うのでした。ここで言われているローマの兄弟たちとは改宗した異邦人改宗者たちのことです。

彼ら異邦人キリスト者たちに対して誰に対しても高慢に成らない様にと語り掛けているのです。

 そして、ここで言われている「秘められた計画」の「秘められた」とは、ミステリオンと言う言葉が使われており、英語のミステリーの言語となっているギリシャ語です。

 英語のミステリーと同様に、不思議とか神秘、限定された人々に開かれた物のことを言っているのです。そしてパウロが語っているのは、神様の秘められた計画なのであり、神により閉ざされた、神様によって許された者にのみ明かされている計画なのだと言っているのです。

 その計画とは、「すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、 こうして全イスラエルが救われるということです。」と言っている通り救いの計画のことなのです。

 このパウロの言っている秘められた計画は、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、そのことによって異邦人全体に福音が述べ伝えられるようになり、異邦人が救いに達し、異邦人が救われることによって、最終的にはて全イスラエルも救われる事だと言うのです。

 このことについて旧約聖書のイザヤ書27章9節から引用して、「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。」と言い、旧約聖書の時から定められていたのだと言っているのです。

 もちろん、ここで全異邦人と言うのは、聖書における世界観に基づいており、この時点のパウロの考えには極東に地である日本やまだ発見されていない事に成っているアメリカ大陸の人々などは考えの中に含まれていないことは確かでありましょうが、それでも、パウロが言っている様に神様は、最終的には、イスラエル・異邦人関係なく救いが神様の憐れみが行き渡る。このことこそ神の秘められた計画であり、神様から知ることが許された者に開かれている計画だと言っているのです。

 パウロの考えは、本日読まれましたローマの信徒への手紙では、最後の32節で言われている「それは、すべての人を憐れむためだった」と言うことなのです。神様が異邦人もイスラエルも関係なくすべての人を憐れむ為だったと言っているのです。

 パウロは、今やイスラエルの人々は、自分から福音を拒否したために、神様を敵に回してしまっていると言うのです。これまでも何度も言われていた通り、イスラエルの神の裁きは、ほかならぬ異邦人への福音流出をもたらしましたが、しかし、イスラエルの祖先たる族長たちの上に与えられた神様の救済史を変更するものでは無かったのです。神様によって選ばれて祝福の民とされたイスラエルの民の地位は不動だと言っているのです。

 なぜそのような事を言うかと言えば、イスラエルに与えられた神様からの諸々の恵みと賜物は決して取り除かれることは無いのです。そして、異邦人の神様とのかかわりはイスラエルに対する神様のかかわり方とぴったりとあっていると言うのです。

 パウロは改めて、異邦人であった人々に対して語り掛け、「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。」と言うのであり、それと同じように、イスラエルの人々も「今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。」と言い、最終的にはいったんは不従順となった者であろうとも憐れみを受けることが出来るのだと言っているのです。

 罪深い反抗的な人間に神様は恵みを持って臨んでくださるのだと言うのであり、福音を受け入れる全ての人に対して神様は憐れみを授けて下さるということなのです。不従順に対する神様の最終的な応答が憐みであると言うことは何と私たちにつって恵みでありましょうか。

 究極の反逆行為である、神であるイエス・キリストを十字架にかけ殺すと言う行動が究極の贖いの行為へと神様は変えて下さったのです。反逆行為を贖いの行為へと変える為に、神様は御子であるイエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださったのであり、それにより私たちにも復活の希望を与えて下さったのです。

 私たちも、パウロから戒めを受けている異邦人改宗者であるキリスト教徒として、神様かに対する反逆を許されて憐れみを与えられ、イエス・キリストの十字架の恵みに喜びを味わっている者なのであります。

 それであるにもかかわらず、自分の中には反逆者である自分が残っていることを自覚する事もあるのではないでしょうか。そんな私たちに対しても神様は私たちに対して憐れみをかけて下さるのです。今日もイエス・キリストの十字架は、そのことを私たちに示し続けているのです。恵みの答えた生活を今週も送っていきたいと願うのであります。

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