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キリストを得て

                説 教 「キリストを得て」 岸 敬雄伝道師

                 聖書 エレミヤ書1章4~10節 フィリピの信徒への手紙3章5~14節

 本日のフィリピの信徒への手紙3章において作者であるパウロは、自分の略歴について説明しています。パウロ自身が自身の経歴について説明している箇所は他にもあり、例えば使徒言行録26章などでは、アグリッパ王の前で自分が回心したことについて弁明する為に自分の略歴について説明していますが、本日のフィリピの信徒への手紙に於いては、自分がキリスト教に回心する前とその後についての違いについてはっきりさせる為に述べているのです。

 パウロは、自分は生まれながらのヘブライ人の中のヘブライ人であり、自分は生まれてから八日目に割礼を受けて、イスラエルの民に属しベニヤミン族の出身であり、由緒正しい神様から呼び出されたアブラハムの子孫であることを証明しようとしています。

 パウロが、自分がベニヤミン族であると言っているのは出身部族に誇りを持つのは確かでしょうが、ユダ族中心のユダヤ人だと自分のことを言うのではなく、自分たちの父祖であるアブラハムが言っていた様にヘブライ人だと言って、父祖アブバハムにまでさかのぼって自分の正当性を主張しているのです。

 パウロは、そのヘブライ人の中でも、律法に関してはファリサイ派の一員ある、その様に言って、律法に従うものであることを示したうえで、教会に対しては、熱心さの点では教会の迫害者だと言うのです。ファリサイ派の中においても特に教会を迫害する事に対して熱心なものだったと言っているのです。その上で律法の義については非のうちどころのない者だったと言うのです。律法の義とは、律法を守ることに関しては非の打ちどころの無い完璧な者者であったと考えていたと言うのです。だからこそ、神様に対する異端と考えていた教会に関しては迫害者であったと言うのです。回心前のパウロにとってみれば、教会に対する迫害は神様の律法に適っていたことだと信じていたと言うのです。そんなパウロを神様は特別な使途として召し出されたのです。

 本日の旧約聖書は、預言者であるエレミヤの召命の場面です。神さエレミヤに対して、「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」と言われるのです。

 それに対して、エレミヤは「ああ、わが主なる神よわたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」と言って尻込みするのです。それに対して神様は自分のことを若者だと言ってはならないと言われた後に、「わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と言われたのでした。

 しかし、エレミヤの最後はどの様になったと言われているでしょうか。自分が思っているのと反対に世の中は動き、自分の思わぬ方向に連れ去られ、聖書には書かれていませんが、おそらく処刑されたと言われています。神様は、約束を守って救い出して下さらなかったのでしょうか。

 よく自分の証し、信仰を自分の血によって証明し、証ししたのだと言われます。神様からの召しは、自分の現在の命よりはるかに大切なものであり、自分の命を落としても全うすべき尊いものであると言う認識がエレミヤの中にも存在していたのでありましょう。エレミヤの最後の姿は、正に福音に殉教した姿と言えましょう。

 パウロについても最後は、自分が望んでいた通りに囚人という形でしたがローマに行くことが出来、宣教も行えたと聖書には書かれていますが、こちらも聖書には書かれていませんが最後は処刑され殉教したのではないかと言われています。

 決して一般的に見れば幸せな最後のようには見えませんが、パウロも全てを捧げるに値するものを見出していたのです。それが、どのようなものかと言えば、パウロは、「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。」と言い、そればかりか「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」と言うのです。「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」とまで言うのです。今までの自分のユダヤ社会における地位やプライドなどはみな、塵あくただと言うのです。 

 それほどまでに素晴らしい事とは、「キリストを得、キリストの内にいる者と認められる」ことだと言うのです。具体的に、キリストを得るとはどの様なことであるかと言えば、「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」を得たことであり、「キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したい」と願うことなのです。

 しかしそれは、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているから」だと言い、そしてパウロは、「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」と言うです。パウロ自分自身も、もうすでに得ているとは考えていません。捕らえられてはいないけれども、なすべきこと、すなわち行うべきことは分かっていると言うのです。

 私たちにとっても、その様なパウロの生き方は実体験として理解できるものがあるのではないでしょうか。人はそれぞれの人生の歩みがあります。例えば学歴とか職歴、社会的な地位などであります。それは私たちがこの世において生きて行くのには大切なものであることは確かでありますが、キリストが与えて下さる証を受けるのにあたっては、この世にある時ほどに有効なものではありません。パウロのように塵あくたとは申しませんが、私たちの人生にとって何が、何よりも大切なもでるか、それは、「信仰に基づいて神から与えられる義」であり、「キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達する」事なのです。

 私たちにとって、イエス・キリストとその復活の力とを知ることにより力を得ることにより、イエス・キリストの苦しみにあずかり、希望が与えられるのです。

 イエス・キリストの苦しみを知ることによって、その上で、復活の力によって力を得ることによって、あらゆる苦しみに耐え抜いていく力を得て、私たちも各々の人生において、希望をもって歩んでいくのであります。

 

 

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