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互いに愛し合う

説 教「互いに愛し合う」 岸 敬雄伝道師

詩編84編6~10節 ヨハネの手紙一3章11~18節

 「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだから」といいます。本日の話を始めるにあたって、なぜ「なぜなら」と言っているのでしょうか。

 本日の話に入る前どの様な話を行っていたかと言えば、それは悪魔の子の特徴についてであり、その特徴とは、正しい生活をしない事であり、それと共に自分の兄弟を愛さないことであると語たっていたのです。それに対して、それと反対に、神の子たちの特質についてどの様な物であるかと言うことについて問いかける為に、「なぜなら」と言っているのです。神の子たちとはだれのことでしょうか。それは神を愛する者たち、福音を受け入れた人々を念頭に置いていることは確かでありましょう。そして、今日語り掛けられているのは、この神の子立ちなのです。

 その様な人々は、悪魔の子とは反対に、兄弟を愛する者であることを前提としているのです。そして互いに愛し合うことを初めから聞いている教えだから、再確認するように言っているのです。では、初めからとは何時から言われていたと言っているのでしょうか。それは、それは福音が述べ伝えられた最初の時を表しています。イエス様の教えの最初から互いに愛するようにと教えられていたのだと言うのです。イエス・キリストの教えは愛の教えなのです。

 そして、兄弟愛に反対をなすものとして、兄弟を憎むことを例に挙げているのです。その例として挙げられているのが、旧約聖書の初めの書、創世記に出てくるカインとアベルの物語であり、この物語を通して悪について語り掛けるのです。

 カインとアベルについてはみな様もご存知かもしれませんが、カインとアベルは兄弟であり最初の人であるアダムとエバの息子です。兄のカインは地を耕すものとなり、弟のアベルは羊を飼う者となりなったのでした。そして、それぞれが神の前に捧げものを持ってきたにもかかわらず、アベルの捧げものは顧みられましたが兄のカインの捧げものは顧みられなかったのです。そのことを恨んでアインはアベルを殺してしまったのです。

 何故カインはそのような事をしてしまったのかと言えば、本日の聖書箇所では彼、カインは悪いものに属していたからであり、カイン自身が徹底的に悪に堕落していたからだと言うのであり、それに対して兄弟であるアベルの行為が正しかったから、悪は正しい行為を行うものを憎むと言うのです。

 このヨハネの手紙の作者の考えの中には、イエス・キリストを受け入れていない世の中は悪であると言う認識が根底にあります。この様に悪が正義を憎むとするならば、神を信じす、神に反抗するこの世に神の子が憎まれたとしても驚くことはないと言うのです。

 そして具体的にはどの様な事を考えているかと言えば、いまだに死の支配の中にある世に対して、キリストと者はもうすでに、死の国から命へとまさに永遠の命へと移されているから憎まれるのだと言うのです。

 そして、兄弟を憎む者は、それは人殺しだと言うのです。憎むことはその人を殺すことであり、全ての人殺しは、永遠の命の中にはいないと言うのです。ですから、この兄弟を憎むと言うことには、ただこの世の命のことではなく救いに入ることを妨げるような行為となる為、永遠の命に入ることを妨げることだからこそ、兄弟を憎む者が人殺へとつながるのです。

 さらに話を人を憎むことから、愛について話題を移し、わたしたちが、愛を知ることが出来たのは、私たちのためにイエスが命を捨てて下さったからだと言うのです。だから私たちも兄弟のために命を捨てるべきだと言うのです。一番大切な命をも惜しまない様に、必要なものに事欠く兄弟を見て同情しない者があるとすれば、どうしてその様な者に対して神の愛が中に留まるだろうと言っているのです。最後に子よ、と呼びかけた上で、だからこそ、言葉や口先だけでなく行いをもって誠実に愛し合おうと呼びかけているのです。

 愛の実践を呼び掛けているのです。実りある愛の実践こそが相互に愛し合う事に成るのであり、ヨハネの手紙の作者は、悪に世の中にあっても自分が子どものように思っている人々に対して、具体的に愛の実践によって神の愛の中に入っていてほしいと願うのです。

 決してそれは難しい事ではありません。悪に属さずに、相手を憎むことなく、イエスが行った様に愛すればよいのです。もちろん完全に行うことができないとしても、日々イエス・キリストにならって、互いに愛し合いながら愛の実践を励んでして行くのです。

 

 

 

 

 

 

 

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