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みな一つになって

 説 教「みな一つになって」 岸 敬雄伝道師

詩編9編2~4節 使徒言行録2章41~47節

 本日の使徒言行録においてのペンテコステ聖霊降臨の出来事の後、聖霊を受けた人々が予言したり、異言を語り出すなど多くの奇跡があらわれた後に、この出来事に驚いた人々が、ペトロが行った主イエス・キリストの福音について説教を聞いて回収した後の話になります。このペトロの説教によって、イエス様のことを信じて洗礼を受けたのはおよそ3千人もいたと書かれています。

 そして、福音を受け入れた人々が増えてくることによって最初期の教会は、どんどんと大きくなっていったのでした。そのような、最初期の教会における教会員の生活の様子が垣間見ることが出来るのが本日の聖書箇所です。

 はじめに。ペトロの言葉を受け入れた人々は、「相互の交わり」に熱心であったと語られています。教会員は交わりを大切にしていたのです。それも、相互の交わりであり一方方向の交わりではなかったのです。

 すなわち、施しを一方的に施すとか、逆に一方的に施しを受けるような交わりではなく、皆が相互の交わりを行っていたのです。皆が使徒の教えに従い平等に暮らしていたのです。何が一番大切なのかを理解して生活していたのです。そして、この様に神様の兄弟姉妹として平等に生活を送っていた人々は、相互の交わりと共にパンを裂くこと、祈ることに熱心であった、というのです。

 ここで言われているパンを裂くことは、祈りと並行的に言われていることから考えるならば、ただ食事のためにパンを裂くと言うような事では無いことは確かです。

 パン裂くことは、聖餐式のことを指していることは確かでありましょう。ペンテコステの出来事において改宗した人々は、祈りと共に、イエス様の死と復活の記念である聖餐を執り行うことに熱心だったと言うことが見て取ることが出来るのです。

 そして、使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたことによって、社会全体に恐れが生じたと言われています。使徒たちの働きは教会の中のみにとどまらず、社会全体に影響を与えて行ったと言っているのです。

 初期の教会における人々の生活は、ある面理想的な生活として描かれています。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」というのです。すべての人が、全てのものを出し合い、分け合って貧富の差もなく、全てみんなで必要なものを満たし合って生活していたと言うのであります。

 そして、何を行っていたのかと言えば。毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をしていたと言うのです。ひたすらみんなが心を一つにして、神殿において礼拝を行い、家ごとに集まっては仲間として食事を共にし、パン裂き、そなわち聖餐を共にしていたと言っているのです。この様な生活を送ると共に初期の教会の人々は、「 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」と言うのです。

 ある意味において、地上における天の国の片鱗を示している、理想的な生活のように思えます。この様な神様の思いに適う生活を営んでいた結果として、「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」と救われるべき人が日々仲間に加えられていったと言うのであります。

 とてもうらやましい状態のように思えますし、現代の教会においても、差別も区別も争いもない状況が作りだせればどれだけよいか、本来その様な教会を目指すことこそが神の国の先取りとしての教会の在り方なのでありましょう。

 しかし、現実は、全ての物を分かち合う初期の教会の生活は、人々が多く加入してくることによって、多くの問題が起きだし、迫害などの影響で教会はちりじりにされてしまい全てのものを共有する教会の姿消えて行ってしまいます。しかし、迫害によって散らされた教会員は、自分たちがたどり着いた土地に信仰生活をはじめ福音を広めていったのです。さらなる、私たちの成長のための場所として神様は、教会を色々な形に変えながらも用いられているのではないでしょうか。

 私たちの今いる教会の中においても、平等、全てを分かち合う精神は必要であり、確かに息づいているのではないでしょうか。そして神の国の先駆けとし、今の教会を、より神様に喜んでいただける教会へと変えていく行くのです。

 詩編9編では、主の驚くべき御業を語り伝えると言っています。この詩編の作者にとっては、心を尽くして感謝を捧げるほどに、驚くべき御業がなされたと言うのです。そして主がなされた驚くべき御業によってわたしは喜び、誇り、御名をほめ歌おうと言っているのです。

 何をそれほどまでに喜んで誇るのでありましょうか。それはまさに、神様が御顔を向けられた敵は退いて倒れ、滅び去ったと言うことです。

 神が敵を滅ぼしてくださった事によって、それこそが喜び誇れるものであり、御名をほめ歌うべき事なのだと言うのです。神は私たちの敵も滅ぼしてくださいます。

 私たちには多くの敵があると思います。具体的に敵対行為をしてくる人ばかりではなく、新型コロナウイルスのような病気であったり、社会情勢であったりするかもしれません。しかし一番の敵は、私たちの心の中にある自己中心の思いであり、自分を優先してしまう弱さであり、神様に対する罪なのではないでしょうか。

 私たちは、弱さや罪を持つ身でありながらも、教会ではみんな一つとなって初期の教会員のように天の国の片鱗を地上に表して行きたいと願いつつ信仰生活を送っていければと願うのであります。

 

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