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主の恵みが

                     説 教「主の恵みが」                               岸敬雄伝道師

                                                                                          聖 書 詩編7編2~6節テモテへの手紙一1章12~17節

 

 本日の詩編7編は、敵からの解放を願った詩編に成ります。この詩の目的を端的に示している部分としては、2節の「わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください。」と言う部分であり、神である主に対して避けどころとすると言うのであります。この様の言い方はほかの詩編などにも見られますが、避けどころと言うのは、一般的にいえば、どこかに逃げるとか、よけるような意味に成りますが、詩編などで、この様にもちいられる時には、神を信頼する意味を含むようになります。そして、主なる神を信頼しているからこそ、自分を敵から救って下さい。と言うことが出来るのです。

 本日の読まれましたテモテへの手紙は、パウロが自分の子どものように思っていたテモテに対して、神様の憐れみを受けた事について感謝の思いを述べています。

本文を見て行くにあたり、はじめに以前もお話をしたことがありましたが、私はパウロが言っているキリスト・イエスとイエス・キリストは同じ意味、私たちの救い主の御名とし扱います。

 パウロは、本日のテモテへの手紙の中で、キリスト・イエスによって強くされたと言うのです。この強くされた原動力はまさに神様に対する信頼ではないでしょうか。そして、強くされたとは具体的にはどの様なことを表しているのか見て行きたいと思います。

 パウロは、神が「わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです」と言っている様に、神様が信頼してパウロを忠実な者と見なして務めに就かせてくださった、この事に対してパウロはまずは、感謝を述べているのです。

 本日読まれました一つ前節の11節で「祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。」とパウロは述べるように、神様から信頼され、福音を自分が委ねられたことにより、自分が使徒だとパウロは自覚していたのでした。ですから、パウロはイエス・キリストの使徒としてテモテに対して語りかけているのです。

 そのことを踏まえて、パウロは本日の手紙の中で、神様の恵みについて、自分の過去を振り返ることを通して改めて感謝を捧げています。

 そして、わたしを強くしてくださったと言うのです。この強くしてくださったと言うのは、パウロが回心して使徒としての働きをするために、必要な力が与えられたことを表しているのです。

 そして、パウロは、以前の自分の状態すなわち神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者であったことを振り返るのです。

 しかしその時は、信じていない時、知らずに行ったことなのだと言うのであり、それゆえに神様は、悪と見える者であったパウロに対して、憐れみをかけて下さり、パウロもそれを受けることが出来たと言うのです。

 この憐れみが何であるかは、それは使徒言行録9章にあるダマスコ途上での回心の出来事にあったのは確かでありましょう。本来キリスト者を迫害する者であったパウロを神様は回心させて、異邦人に対する使徒として、ご自分の業を進めていく為に召し出されたのです。

 このように、キリスト者を迫害する者であった、言い換えれば罪人であったパウロが回心して救われたことについて、『「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。』と言うのです。

 まさに、罪人を救って下さる救い主であるキリスト・イエスは、すべての罪人、すなわち罪人である私たち一人一人が救われる機会を与えられるために、この地上に来てくださいました。その証拠とし、救われた罪人の最たる者が自分なのであるとパウロは言っているのです。

 そして、自分が信じるべき神が誰であるか、そして誰が自分の救い主であるかを知ることが出来るようになったパウロに対して、「主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。」と言うのです。主が恵みを与えて下さった事に対してパウロは、感謝の思いを込めて語っていますが、皆さんはいかがでしょうか。神様が与えて下さった信仰と愛と恵みが溢れるほどに与えられた経験はありますでしょうか。

 パウロは「わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」と言うのです。そして、自分に恵みと信仰と愛が溢れるほどに与えられる前には、キリスト・イエスがまず、その為に、「わたしに限りない忍耐をお示しになり」と言うのです。

 神からの恵みや信仰、愛は自分から得るものでは無く、はじめにキリスト・イエスの方から与えようとされ、キリスト・イエスが忍耐してくださっていたからこそ受けることが出来たと言っているのです。

 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。と言って神の憐れみに対して感謝を締めくくるのです。

 主に対して、永遠の王だと言うのです。決してこの地上の移り変わる様な王ではなく,決して変わることの無い私たちの支配者である王だと言っているのです。

 そして、不滅で目に見えない唯一の神と言い、眼に見える石や木、金属などで造られた神ではなく、眼には見えなくとも不滅の神に対して、誉れと栄光が世々限りなくある様にと言って賛美を捧げているのです。でも、眼に見えない神をどうして知ることが出来るのでありましょうか。それは御子、主イエス・キリストを通して知ることが出来るのです。

 そして、主イエス・キリストに従って行くことによって、私たちのも、パウロが言う様に、目には見えなくても不滅の神に栄光を捧げて行くのであります。

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