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からの墓

                   聖霊降臨節第6主日礼拝

                    説 教「からの墓」          岸敬雄伝道師

聖 書 詩編16編10~11節 ヨハネによる福音書20章1~10節

 

 本来の年間予定ですと礼拝後に墓前礼拝を予定しておりましたが、残念ながら新型コロナ過において断念せざるをえませんでした。しかし、本日は墓前礼拝の思いをもって主日礼拝を捧げたいと考えます。

 本日読みました詩編16編において語られているのは、詩編の作者の信仰告白と見なしても良い部分と言えます。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。」と言うのです。神様は私たちの魂を陰府すなわち死んだ後に魂が行く場所と考えられていた場所に、捨てておかないと言っているのです。

 詩編16編では、神の慈しみに生きる者、わたしの魂を陰府に渡すことなく、墓穴を見させず、命の道を教えてくださる、魂が陰府に行った後に命の道を教えて下さると言うのです。

 さらに、この肉のままでは仰ぎ見ることなどできないと考えられていた神様の御顔を仰ぎ見て、満ち足りると言うのです。その上で喜び祝い、神様の右の手から永遠の喜びを頂くと言うのです。ここで言われていることは、新約聖書以降の人々はイエス様が復活の出来事によって成就したものだと受け取ったのでした。

 本日の新約聖書の部分は、ヨハネによる福音書における主イエス・キリストの復活された場面の始めの部分に成ります。このヨハネによる福音書では、ほかの福音書のように天使は出てくる前にペトロ立ち弟子たちにマグダラのマリアは墓がからであったことを報告しに行っていいるのです。マグダラのマリアは、安息日が終わり朝一番、まだ暗いうちにイエス様の墓に行くのでした。その時、墓の蓋をされていた石が取り除けられたのを見たと言うのです。そして、墓から帰って後にシモン・ペトロと、イエスが愛しておられたもう一人の弟子、この二人に対して「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」と告げたのでした。

 すると、ペトロとそのもう一人の弟子は墓へと行ったのでした。そして、二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いたのでした。そして墓の中を覗いてみたけれどもイエス様を包んでいた麻布だけがあったと言うのです。

 ペトロは名前が書かれていますが、もう一人の弟子については名前が抱えていません。イエス様が愛された弟子と言う書き方をするときには、十二使徒のヤコブの兄弟ヨハネを指すと考えられることもありますが、ここではペトロをユダヤ人キリスト者の代表として、名前があげられていない弟子を異邦人からの改宗者の代表者を表しているとの見方をしている人もおります。

 はじめに着いたのはイエスが愛しておられた方に弟子で、中を覗き込んでマクダラのマリアの報告通り墓が体あったことを確認するのでした。さらに後から着いたシモン・ペトロは中にまで入って確認し、「亜麻布が置いてあるのを見た。 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」とより詳しく描写しているように詳しく書かれています。されから後に「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」と言うのです。

 「信じた」とは何を信じたのでしょうか。続いて、聖書には、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」と言うのです。弟子たちは、この空の墓から、イエス様の復活を信じたのです。

 このヨハネによる福音書の作者が強調しようとしているのは、からの墓によって、弟子たちはイエス様の復活を信じた事なのです。だからこそ、ヨハネによる福音書のでは、マグダラのマリアが天使と会い、復活したイエス様と出会う場面を後に回しにしてまでからの墓を強調しているのです。

 この空の墓と言う告白は、キリスト教の最初期からの告白であり、キリスト教の神髄にある信仰告白に一つであったと言えるものです。からの墓の来事の後に、復活されたイエス様のおとずれを受けるのです。イエス様が十字架にお架かりになる前から言われていた復活の出来事を信じることが書かれているのです。その後に疑ったトマス話へと繋がり、弟子たちがイエス様の復活を信じ、永遠のいのちの希望へと導かれた様に、私たちも導かれて行くのです。

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