聖霊降臨節第5主日(父の日)礼拝
説 教「なくした物を見つけたら」 岸敬雄伝道師
聖書 詩編12編2~6節 ルカによる福音書15章1~10節
徴税人や罪人が皆、イエス様の話を聞こうとして近寄って来たことに対して、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、イエス様に対して「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言ったのでした。
ファリサイ派の人たちは自分たちこそが、神の教えに忠実に従っている者であるとの自負を持っており、ほかの神様の戒めを守れない人々を罪人と見下げて蔑んじていました。その様な神様の戒めも守れていない人々が、イエス様からの教えを聞く事についての反発があったのは確かでしょう。それと共にその様に自分たちが差別している人々とイエス様が関わりを持つこと自身に対しても不快感を抱いていたのでした。
イエス様がこの場面で、本当に罪人と共に食事をしていたかどうかは分かりませんが、共に食事をすると言うのは、仲間に成っていると言うことを表しているのであり、イエス様を、罪人を迎え入るばかりではなく、その仲間に成っていると言って批判しているのです。
この様に批判しているファリサイ派の人々や律法学者たちに対して、イエス様は二つの譬え話して答えられたのです。この二つの譬え話は、同じ意味が含まれています。どの様な意味があるのでしょうか。初めの譬え話から見て行きましょう。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」言われるのです。そして、「 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」と言わるのです。
迷い出た羊は野原に残して置かれた九十九匹の羊同様に迷い出てはいけないことを知っていたはずです。それなのに迷い出てしまった。その様な言いつけを守れなかった、言わば罪を犯した羊を見つけた方が九十九匹の正しい羊についてよりも大きな喜びが天にあると言われるのです。
もちろん羊は人を表しているのですが、もし罪が無い九十九人の正しい人が聞いたとしたらどの様な思いがするでありましょうか。罪人が悔い改める方が九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にあると言うのですから。しかし、そのような心配は無用です。なぜなら誰でも罪人であり、九十九匹の羊のように、おとなしく羊飼いの言いつけを守るような、罪の無い人などどこにもいないのです。全ての人が罪人であることをイエス様はよくご存じでこの譬え話も行っておられるのです。
次のたとえ話は「ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」と言われているのです。ここでも確かに一人の罪人が悔い改める時には天において喜びがあることが述べられているのです。
銀貨の譬えでは、ドラクメ銀貨は、自分の責任で無くなったのではなく、所有者の不注意によって無くなった、言い換えるなら、他人の責任によって罪人となってしまったと言えるでしょうか。
イエス様は自分の責任だろうと他人の責任だろうと関わりなく、罪人となってしまった人が悔い改めて神様のみもとに戻ってくることに対する喜びが大きいことを言っているのです。
ここで忘れてはいけないことは、決して罪人でない人はいない、言い換えるならば、誰であろうとも悔い改めて神様のみもとに立ち返る必要があり、誰であろうと悔い改めて立ち返るなら、天には大きな喜びがある、と言うことに成ることです。
そしてはじめに戻って、このたとえ話はファリサイ派の人々や律法学者たちに対し語られた譬え話だと言うことです。彼らはユダヤ社会の指導者階級であり、律法などを守ることができない人々を罪人と蔑んでいた人々です。
そして自分のことを罪人と認めていない人々だったのです。自分を罪人と認めることのできない、天に大きな喜びをもたらす事が出来ない人々なのです。
ファリサイ派の人々や律法学者たちは、当時は尊敬されていたかもしれません。しかし、この地上での栄光はあったとしても、天に喜びをもたらすことができないのです。なぜなら、根本的な事を理解できていなかったからです。
自分が罪人であり、私たちには罪を贖って下さる救い主として主イエス・キリストが必要だと言うことを。私たちもそのことをよく理解しなければ成らないのです。そして、 主イエス・キリストに依り頼んで歩んでいくのです。