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「豊かな恵み」

                      

聖霊降臨節第4(こどもの日・花の日)主日礼拝

                説 教「豊かな恵み」             岸 敬雄伝道師

                詩編68編19~21節 エフェソの信徒への手紙2章5~13節

 

 エフェソの信徒への手紙2章の始めからパウロは、以前私たちは過ちと罪の為の死んでいた、そして肉の欲望の赴くまま心の欲するままに生活していたと言うのです。

 食欲の様な基本的な欲求や、人の物を欲しがるような物欲の虜と成っていたり、それと共に心の欲するままに、言わば自己中心的な生きかとをしてきたと言うのです。

 その様な生き方をしている私たちは、神様の眼から見たらば神様から遠く離れた罪の状態、それはまさに死んでいるのと等しい状態だったと言うのです。

 そんな罪のために死んでいた私たちを神様は、キリストと共に生かして下さったと言うのです。私たちが死んでいたのが、神様の眼から見て生きる者、正しいものとなった。そればかりか、さらに、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。と最終的な救いが行われたように過去形で、救いの業が終了したように、パウロはエフェソの信徒たちに向かって語っています。

 ここで少し言葉の使い方に触れておきたいと思います。パウロは、ここで言っているように、キリスト・イエスと言う言い方で神の独り子、主イエス・キリストのことを言うことがありますが、以前はイエス・キリストは復活後のイエス様のことを言っていて、キリスト・イエスは十字架に掛られる前のイエス様を表しているのではないか、などと色々と考える方もおられましたが、今回私は,そのような違いの無いものとして、私たちの救い主、神の独り子であるイエス様として、イエス・キリストとキリスト・イエスを区別なく扱うつもりです。

 話を戻して、私たちを生きる者として下さった、この恵みがどの様にして与えられたかについては、前の4節で「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、」と言われているとおり、神様が私たちを愛してくださっているからだと言うのです。

 まさに憐れみ豊かな神だからこそ、神が私たちをこの上なく愛して下さって、その愛によって私たちに恵みを与えて下さったのです。この憐れみ豊かな神の愛、これこそが私たちを救って下さったものであり、神の恵みなのであります。この神の恵みが、キリスト・イエスによって私たちに示されたのでした。

 さらに、「こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」と、キリスト・イエスによって表された恵みが来るべき世にこそさらに鮮明なものとして表されることを示しています。そして、この恵みにより神から与えられたキリスト・イエスに対する信仰による救い、すなわち私たちが持っている信仰すらも、私たち自身の力によるものでは無く神様の賜なのだと言うのです。

 まさに詩編68編の作者も言っているように、主なる神は、日々、わたしたちを担い、救われるのであり、 この神はわたしたちの神であり、神の救いの御業によって死から解き放つ神なのであります。

 さらに詩編でも言われていたように、救いの御業は神の御業であり、私たちの「行いによるものではありません」とはっきりとパウロは言い切る通りなのです。なぜ私たちの行いのよるものでは無いと言い切る必要があるのかと言えば、それは、誰も誇る事が無い為だと言うのです。自分の力が救いにいくらかでも関与したように誇る事が無いために。

 確かに福音書の中でイエス様は、求めるように、そうすれば与えられる。と自分で努力するようにと言われているように受け取れる箇所もありますが、私たちが求めたから救われたと言うのではなく、救いはもう用意されていたものなのであり、それを求めるように導いてくださった事も含めて神様の恵みなのです。

 そして、救いは行いではないさらなる理由として「 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」と言うのです。

 私たち自身が神によって造られた者であることを確認し、その創造主である神が前もって準備してくださった善い業のために、私たちはキリスト・イエスによって造られたのだと言うのです。天父なる神の創造の業に御子イエス・キリストも関わっていて下さった事を示しているのです。そして創造の業の目的として善い業を行うこと、すなわち、この地上において神の恵みによる生活を実践する事だと言うのです。

 本来、私たちは救われるようにと造られているものであり、それが罪によって道をそれさせられていたのだ、だから善い業を行って歩むことこそ本来の姿だと言うのです。

 そして、エフェソの教会の信徒に対して、キリストと出会うまでの状況を心に留めておくようにと言うのです。エフェソの信徒教会の人々は、「なたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれ、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」と言うのです。

キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていま人々、言い換えれば異教徒であり、異邦人であったと言うのです。そんなエフェソの教会の人々に対してさらに、以前は遠いものであったが今はキリストの血によって近いものとなった、というのです。何に遠く今は何に近いかと言えば、まさにそれは、救いに対してであることは明らかでありましょう。

 以前は異教徒であり異邦人であった者が、キリストの血によって教会と結ばれて救われるものとされたのです。

そして、希望の無い生活から現在は神を知って希望をもって歩める者とされていると言うのです。

 私たち自身も殆どの人は、以前はキリストから遠いものであったけれども、今はキリストの血、あの十字架の上で流されたキリスト・イエスの血によって、救いに近いもとされたのです。私たちは、救いにあずかる者として、神の善い業を実践する、神の豊かな恵みを受けた者として感謝の思いをもって過ごして行くべきなのです。

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