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説 教「愛をもって」    岸敬雄伝道師

聖霊降臨節第3主日礼拝

           聖書 詩編3編2~5節 ヨハネの手紙一 4章11~18節

 神様については色々な言い方がされます。先週の言い方で言えば「神は霊である」と言われていました。本日の聖書箇所では「神は愛です」と言うのです。

 ヨハネの手紙の作者は、誰であるかと言うことには議論が借りますが、この手紙の作者は、この手紙を読んでいる人々に対して愛する者たちと呼びかけているのです。そんな愛する人たちに対して、互いに愛し合いましょうと勧めるのです。

 なぜ愛し合う様にと勧めるかと言えば、「愛は神から出るものであり、愛する者は皆神から生まれ、神を知っているから」だと言うのであり、逆に「愛することのない者は神を知りません」というのです。その理由として「神は愛だから」というのです。ここで言われている「神は愛」と言うのは、愛は神から来るものであると言うことを表していると見ることも出来ます。

 神がどの様にして愛を示してくださったと言うのでありましょうか。それは、「 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」と御子を私たちの罪を贖うためにいけにえとされたことによって、神は私たちに愛を示すことにより、その様な形で神様はご自身を示されたのです。

 そして、御子、主イエス・キリストを送って下さり、私たちを生きるようにして下さったと言うのです。もちろんこの生きると言うのは現世を生きて行くことが出来る指針を与えて下さった事はもとより、私たちに対して死をも超えて命を与えて下さり、生きるようにしてくださった事を示しているのです。だからこそ、神の愛が私たちの内に示されたと言うのです。肉的に生きるのではなく、霊的に生きるようにして下さったのでした。

 さらに具体的に、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わして下さったのだと言うのです。神の愛が最も確かに示されたのが御子イエス・キリストを遣わされたことであり、御子によって私たちの罪を贖って下さった事だと言うのであります。

 そして、わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さったのだと言っているのです。そのしるしとして、独り子、主イエス・キリストを私たちの罪の贖いのために遣わしてくださり、それほどまでに神は私たちを愛して下さったのである。だからこそ、私たちも互いに愛し合いべきだと言うのです。

 そして、「 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされている」というのです。

 確かに、私たちの中で神を見たことがある人はそうはいらっしゃらないでしょう。しかし、なぜ神を知ることが出来たのでありましょうか。神が私たちの中にとどまって下さったからだと言うのです。私たちが知るように努めたからではなく、神様の方から私たちの中にとどまっていてくださるからだと言うのです。それは、「 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。」と言う様に、神の霊、すなわち聖霊なる神を私たちに与えて下さったのだと言うのです。さらに、神の霊が私たちの中にとどまっていてくださるばかりか、私たち自身が神様の中にとどまっていることも分かると言うのです。

 この手紙を書いた作者が、使徒たちと同じ世代の人であれば自分の眼で主イエス・キリストを見た可能性もありますし、使徒パウロの様に復活した主イエス・キリストに出会ったのかもしれません。肉の眼で見たかどうかはともかくとして、しっかりと御子が救い主と知ったからこそ、そのことを証していると言うのです。

 そして、「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」と神と人との相互の交わりが、ここでもイエス・キリストを神の御子であると公に言い表すことを条件として示されているのです。

 さらに、「 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」と言い、そして、最後の時の裁きに対しての希望が述べられるのです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」と言うのであります。

 私たちが互いに愛し合い、神を、そして神の霊を私たちの中へと招き入れ、イエス・キリストを主であり救い主、メシアであると公に証して、終わり日の裁きに対しても希望をもって、恐れを締め出し、愛をまとって、神を愛し、神から愛されて歩み続けて行くのであります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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