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まことの礼拝

聖霊降臨節第2主日礼拝 

   説 教   「まことの礼拝」    岸敬雄伝道師

聖 書   詩編29編1~5節 ヨハネによる福音書4章21~30節

 

 ヨハネの福音書の中で、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。」とイエス様は言っています。これからの出来事は、イエス様が、ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれたその途中で起きた出来事でした。ユダヤとは、ここでは、ガリラヤやサマリア同様に地方の名前と言う事に成ります。

 イエス様がユダヤからガリラヤに行くたまには、サマリアを通らなければならなかったと書かれています。そして、サマリアの地にあるシカルという町のヤコブの井戸に到着した時の出来事でした。正午ごろにイエス様は旅に疲れて、井戸のそばに座っておられました。そこにサマリアの女が水を汲みに来たのです。

 このサマリアの女について名前は書かれていません。ただサマリアの女と言われているだけです。この水を汲みに来た女に対してイエス様は水を飲ませてほしいと言われるのです。

 それに対してこのサマリアの女は、イエス様に対して、「ユダヤ人のあなたが、私に水を飲ませてほしいと言うのか」と問い返したのです。

 なぜなら、ユダヤ人はサマリア人のことを異邦人と混血した罪深い人々だと差別していたのです。その様な事から、サマリア人とユダヤ人とは仲が良くなかったのです。その上、この暑いさなかである昼の12時ごろに人の眼を避けるようにして水を汲みにやって来た女には、その様にしなければ成らない理由があったのです。そんな、わけありのサマリアの女である私に対してユダヤ人のイエス様が水を飲ませてほしいと頼まれたのです。不思議がるのは当然でした。

 その様な中でイエス様は「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と話されるのです。

 すると、今度はサマリア人の女の方がイエス様に対して「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と言ったのでした。

 このサマリア人の女はイエス様のことを主と呼んでいます。イエス様のことを普通の人ではない特別の人であることをこの時点で認めてはいますが、イエス様は、命の水について話しされたのですが、まだこの女は、そのことが理解できず、自分が水を汲みに来る現在の苦しみから解放されることを望んだのです。

 それに対してイエス様は「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と一見関係ないことを答えるのです。

 するとは女は答えて、「わたしには夫はいません」とこたえるのです。イエスは「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。」と言われて、女の現状について「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。」と言い当てたのでした。夫ではない男と連れ添っている、この現状が女が人目をはばからなければ成らなかった理由でした。

 すると、自分の現状を言い当てられた女は、イエス様を預言者だと信じて、水汲みに苦労しているような表面的な問題ではなく、自分たちの真のある問題についてイエス様に質問したのです。その問題とは、「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」と言って神を礼拝することについてイエス様に尋ねたのでした。

 当時は、ユダヤ人がエルサレムにある神殿で礼拝していたが、サマリア人は、エルサレムで礼拝をすることが出来なかったので、サマリア人独自にゲリジム山に神殿を築いて礼拝していたのでした。その様にユダヤ人とサマリア人は分かれて礼拝していたのです。

 しかし、サマリア人たちが聖なる場所とさだめて礼拝していた場所からも、この女は相応しくない者であると追い出されていたはずです。その様な女に対して、イエス様は「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」と言われるのです。この人眼を避けて生活している女に対してイエス様は、「婦人よ」と敬意をもって呼び掛けているのです。そして「山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」と言われるのです。

 さらに「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」と言われるのです。礼拝とは、場所によって礼拝するものではなく、霊と真理をもって父を礼拝するものである、と言われるのです。

 世界の全ては神様がお造りになったものであり、神様は全てのどこにいても私たちのことを見ていてくださるのであります。ですから、礼拝する場所が問題なのではない。霊と真理をもって父を礼拝する事こそが問題なのだと言うのであります。

 そして、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」と語られたのです。神は霊である、と言われると唐突なように思われますが、神は私たちの肉の眼に見えるような限定的なものでは無く超自然的なものである、と言うことを表しているのです。

 さらに続いて、「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」それが、今がその時であるとイエス様は言っておられるのです。

 イエス様から「婦人よ」と呼びかけられた女性は、イエス様に対して「メシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」と答えるのでした。この答えに対してイエス様は、「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」とお答えになるのであります。

 イエス様から、その様に言われたこのサマリアの女は、イエス様を信じた者となり、それに相応しい行動をとるように成るのです。それは、「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」といって人々を呼び行ったのです。人目を避けて暮らしていた女はイエス様によって、イエス様のことを証しする者へと変えられ人々を呼び集めるものへと変わったのです。

 そして、その結果として、「さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じたのでした。

 さらに、イエス様のことを聞いたサマリアの町の人たちは、イエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在されたのでした。その結果として、このサマリアの町の人たちは更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じたのでした。

 そして、彼らは初めにイエス様のことを知らせてくれた女に「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」と言ったのでした。

 

 イエス様のことをメシア、救い主であると知った者は、真の礼拝を捧げるものへと、そして、イエス様のことを述べ伝えるものへと変えられるのです。

 そして、今までの生活から変えられ、人々へとイエス様のことを述べ伝える者とされるのです。私たちも、イエス様を私たちの救い主として示された者として、イエス様を述べ伝えていくものとして歩み続けて行きたいと願うのであります。

 

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