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 聖霊降臨日(ペンテコステ)主日礼拝

 聖霊降臨日(ペンテコステ)主日礼拝 

   説 教     「神の霊」    岸敬雄伝道師

聖 書  レビ記23章15~23節      使徒言行録2章1~21節

 本日の新約聖書の箇所は、使徒言行録においての、聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事とそれに続くペトロの説教の前半部分です。

 ペンテコステとは、本来聖霊降臨と言う意味ではなく、ギリシア語の50と言う言葉から来ています。この50と言うのは、当時のユダヤの祭りで五旬祭と呼ばれる祭りに由来しています。

 本日読まれました レビ記23章15~23節に出てきているようにユダヤ教における五旬祭とは、7週の祭りとか初穂の祭りとかも言われますが、初めての刈り入れ、つまり大麦の刈り入れを始めてから50日目と言う事に成ります。

 大麦の刈り入れを初めて行われる時に行われる祭りが過ぎ越しの祭りであり、それからの後50日目がちょうど小麦の刈り入れを始める時期であり、この小麦の刈り入れを始めの時期に行われる祭りが五旬祭であり、過ぎ越しの祭りから満7週目であることから7週の祭りとも小麦の刈り入れを始める為に初穂の祭りとも言われるわけです。

 五旬祭は、過ぎ越しの祭り、仮庵の祭りと合わせてユダヤ教の三大祭りとされる大切な祭りの一つでした。だからこそ多くの人々が集まっていたのでした。

 そんなユダヤ教の人々にとって大切な祭りの時に起こった出来事が聖霊降臨の出来事であり、それ以後、ユダヤ人の五旬祭は、キリスト教に於いて別の意味をもつ大切な祭りへと移り変わっていたのであります。

弟子たちは、イエス様が天に帰られる前に約束されていた導き手である聖霊を、一同が一つになって集まって祈りを持って待っていたのでした。すると、みんなが集まっている家の中で「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」と言うのであります。これが初めに聖霊が弟子たちに降った時の様子だと言います。

 しかし、聖霊はこの場面で初めて聖書に登場したわけではなく、イエス様が誕生する時に、その知らせを伝えた天使が、聖霊によって身ごもっていると言い、イエス様の先に道を整えることとなっていた洗礼者ヨハネは、自分は水で洗礼を授けるが、その後からくる御方は火と聖霊によって洗礼を授けると言ったのです。その洗礼者ヨハネがイエス様に洗礼を授けた時に、聖霊が鳩のような姿で、イエス様の上に降って来たのでした。

 このほかにも色々と聖霊の働きは聖書の中で語られていますが、この度は聖霊が直接弟子たちの上に、イエス様の約束の通りに与えられたのであります。そして、この弟子たちに与えられた聖霊は、私たち教会員ひとりひとりにも与えられているのであります。

 この聖霊降臨の出来事が起こった時に、聖霊が降った人々は異言を語り出したのでした。この異言を聞いた人々の中には自分の出身地の言葉を聞いて驚いきをもってこの奇跡を受け止めた人々もいました。しかし、異言を聞いた人々の中には昼から酒に酔っているのだと言って、取り合おうとしなかった人々とがいたのでした。

 そのような混乱の中において、ペトロは語り出すのです。初めに、人々に対して「今は朝9時だからあなたがたが考えているように、酒に酔っているのではない。」と酒に酔っている様な事を否定します。

 そして、これこそが預言者ヨエルを通して言われていたことの成就だと言うのであります。

 それは、終わりの時についての奇跡であり、「終わりの時には神の霊が注がれて、息子娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」霊が注がれた時には預言がなされ、上では、天に不思議な業、下では地に徴を示そうと言うのであります。そして終わりの日には、主の御名を呼び求める者は、皆救われると言うのであります。

 その説教を聞いていた人々は、その後、ペトロに対してどの様にすれば救われるかと尋ねるのですが、ペトロは、救われるためには、イエス・キリストを信じて洗礼を受けるようにと言うのであります。

 先にも申しました通り、ユダヤ人の五旬祭は、キリスト教に於いて別の意味をもつ大切な祭りペンテコステへと変わりました。それと同時にもう一つユダヤ教からキリスト教に似ているものであっても変わったものがあります。それは教会です。なぜかと言えば、ユダヤ教には集会所としてのシナゴーグと呼ばれるものはありました。そこでは礼拝もなされ、聖書が読まれ、祈りがささげられ、詩編などから見れば讃美もささげられていたかもしれません。しかし、そこは、人が集まって礼拝する場を作ったのであります。それに対して、キリスト教の教会では、聖霊が下って神の呼び集められることによって、教会は成立したのです。

 人が集まって礼拝するようになっていた、シナゴーグとの違いが確かにここにあるのです。神に呼び集められた民として、どこにいても天の教会でつながって、共に礼拝を捧げて行くことが出来るのであります。

 私たちも聖霊の導きを受けて、洗礼を受けることによって救いにあずかる者とされ。そして、救われた者としての生活を歩み続けて行くのです。

 

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