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まだ見ぬ神

復活節第4主日礼拝  

説 教 「まだ見ぬ神」    

聖 書  詩編19編9~12節使徒言行録17章22~34節

岸敬雄伝道師

 パウロは、とても人間味のある興味を引き付けられる人間であると言えるでしょう。ある時には自分の弱さがあることを認め、ある時には自分と意見が合わず正しくない行為であると思えば、イエス様の一番弟子だと言えるペトロに対しても八来ると間違いを指摘する熱血漢であり、どんな苦難に対しても立ち向かっていくのと共に、色々な所で問題視されるような騒動を起こしたりもします。

 そんなパウロがアテネについた時に最初に町のいたるところに偶像があることを見て憤慨しましたが、町の広場で人々と語り合ううちに、宣教の方法も少し変えたのではないかと思われます。

 本日読んでいただいたアレオパゴスの真ん中に立った時には「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。」とまずアテネの人々の信仰深さをほめたたえるのです。さらに「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。」と言うのです。

 アレオパゴスとは、丘の名前とも言われますが、そこで議会が開かれていた人々が集まる場所であり、大切な場所であったとも言えましょう。

 アテネを含めてギリシアは、ギリシア神話を見てもわかるように多くの神のいる多神教の国です。そんな多神教の国の中で、パウロは自分が信じている唯一一人の神についてどのように宣教を開始するかにあたって、ギリシアの人々に対して、頭から否定するのではなく、その人々の良い所を認める態度を取ったのです。このパウロの姿勢は、私たちも見習うべき所なのではないでしょうか。。

 まず帆との良いところを見つける為に、道端で見つけた『知られざる神に』と刻まれている祭壇に注目したのです。多くの神を信奉しているギリシア人にとっては、自分たちがまだしらない神に対しても失礼が無いようにと祭り、拝んでいることは、ある面自然なことでありましょう。その様なギリシア人に対して『知られざる神に』についてパウロは知らせようと言うのです。今まで知られざる神、主イエス・キリストについて。

 しかし、はじめから唯一の神である主イエス・キリストについて語り出すのではなく、世界とその中の万物とを造られた神について語り、イエス・キリストがその方であると説くのです。

 そして、この神は天地の主として語り、ギリシアの大きな石像などが飾られていた神殿などにはお住みには成らない、そして、人の手によって仕えてもらう必要もないことをと教えるのです。すべての人に命と息とその他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです、というのです。

 神は土のちりからアダムを形づくり、命の息を吹き入れて生きるものとなされたことを示しすのです。その上で更に一人の人、すなわちアダムから全ての民族が作り出されて行った様子を語り、民族を地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました、とパウロは言うのであります。

 そして、このように一人の人から多くの民族を作り出し季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになったのは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば神を見いだすことができるようにするためだと言うのであります。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられないと言うのです。

 確かに、神は私たちの側にいらっしゃってくださいます。決して遠くにいるのではありません。その姿を私たちは聖霊なる神の導きとして感じるか、神様からの守りとして感じるか、それとも確かに神様はいらっしゃると言う証しとして与えられるか、悲しみにある時に慰められるか、苦難の時に助けを与えられた経験となっているか、それは色々な形を取り、人それぞれ個別のものなのも確かでありましょうが。

 皆さんの内のある詩人たち、すなわちギリシア人がよく知っている詩人の言葉を引用して、『我らは神の中に生き、動き、存在する』、『我らもその子孫である』と言っている言葉から、わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の業で考えて作った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。と言うことによって、人の手で作られた像を神として拝む偶像礼拝を否定するのです。

 そして、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったと最後の裁きの日について述べるのです。それと共に、神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことに確証をお与えになったと言い、主イエス・キリストの復活と、天父なる神から主イエス・キリストが裁きの権能を与えられた所までを解き明かすのです。

 パウロの宣教の結果は、決して思わしいものでは無かったが、信仰に入った人の中にはアレオパゴスの議員ディオニシオの様な当時の上流階級の人々の名前があげられています。

 私たちも労多くして益が少なく思える時であっても、神の働きを正しく行って行く時には、神はその働きの結果を与えて下さるのであります。たとえ、私たちがその結果を知ることができないとしても、御業は進められるのです。私たちは自分の成果を求めるのではなく、御心がなされることを願うのです。

 詩編19編でも言われているように主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与えるのです。そして、主の僕にとってはそれを守って大きな報いを授けて下さるのです。

 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い報いを受けるのです。人の眼からはどの様に見えるとしても、終わりの日の誠に正しい主の裁きの時に、私たちは、その終わりの時の与えられる報いのわずかばかりを、今この現世においても味わい続けているのです。

 主イエス・キリストから与えられる恵みによって。

 

 

 

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