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豊かな憐れみにより

復活節第2主日礼拝

説 教 「豊かな憐れみにより」    岸敬雄伝道師

聖 書  詩編116編5~11節 ペトロの手紙一1章3~9節

 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。と言う神に対する讃美のことばから本日の新約聖書の箇所は語り出されています。それはなぜ、主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられるのでありましょうか。

 それは、あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られているからだと言います。

 今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、しかし、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れる時には、称賛と光栄と誉れとをもたらすものである、と言うのです。

 今しばらくの間ある色々な試練に悩まねばならないだろうが、その試練は火で精錬されるようなものであり、私たちの信仰を純粋なものとして磨き上げ、それも、朽ちるほかない金よりはるかに尊いものにとされるというのです。そして、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすものとなると言うのであります。さらに、あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれさせると言うのです。

 確かに私たちも、イエス・キリストを見たことはありません。しかしヘブライ人の手紙11章1節で節で信仰について、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です。」といっているように、見た事の無いイエス・キリストを信じ愛しすることが信仰であり、そして、そのイエス・キリストによって言い表せない喜びがもたらさせたのです。

 イエス・キリストに対する信仰はただ信じると言うことではなく、信じることによって確実な喜びが与えられているのです。この喜びは、昔も今も変わりなくイエス・キリストと繋がっている、全ての人々が感じることが出来る喜びなのです。

 たとえ、現在が試練の中にあるとしても、その試練によってこのイエス・キリストに対する信仰は本物と証明されるのです。そして、この信仰はイエス・キリストが現れる時には、称賛と光栄と誉れとをもたらすと言うのです。

 なぜそのようなことが可能かと言えば、それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからだというのです。私たちはすでに信仰の実りを受けている。魂の救いを受けているからだというのです。

 まず救いを受けているからこそ、主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますようにと、賛美を捧げることが出来るのです。

 そして、なにゆえに父なる神に賛美を捧げるかと言えば、それは、私たちに対しても天父なる神の豊かな憐れみによって、私たちを新たに生まれさせてくださったからなのです。

 私たちを、どのように新たに生まれさせたのか、それは、死者の中からのイエス・キリストの復活させたことによってであります。イースターの出来事、すなわちイエス様を復活させられることによって、私たちも新たに生まれさせてくださったのです。

 教会に入会する時には洗礼と言う儀式を受けます。私が洗礼の儀式を受けた時には、頭に三度水をかけられただけでしたが、イエス様の時代の洗礼は全身を水の中に沈めるものだったようです。

 もしかすると、ここにいらっしゃる方の中にも全身を水の中に沈められる、全身礼と言われる洗礼の方式で、洗礼の儀式を受けられた方もいらっしゃるかも知れません。バプテストと呼ばれる教派などでは多く全身礼を行っているとも聞きます。

 洗礼としてはどちらも同じものではありますが、全身礼だと、洗礼が、一度死んで生き返ることを象徴していることをより実感しやすいかもしれません。私たちにとっての希望、新しいいのちの希望はまさに生き生きとしたものであり、実感できるものなのです。

 私たちの信仰は、神の力により守られています。

 私たちはまさに、豊かな恵みによって生き生きとして生きて行けるようにと守られているのです。

 私たちの信仰が、もし私たちだけのものであれば何時消え去ってしまうほどのものであるか分からない頼りないものでありましょう。しかし、私たちの信仰は、私たちの力だけではなく神の力によって与えられているのです。

 私たちの信仰は、イエス・キリストが現れる時には、称賛と光栄と誉れとをもたらすものとされているのです。

 イエス・キリストを死者の中からよみがえらされた神が、終わりの日にイエス・キリストを再びこの地上に送られるのです。

 その終わりの時は、罪人である私たちには裁きの時であり、恐ろしい日となりそうでありますが、それと同時に称賛と光栄と誉れとをもたらす日であるのです。それまで、私たちは、今試練にあっても、信仰を研ぎ澄まして耐えて行くのであります。

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