復活祭(イースター)合同礼拝
説 教 「復活なさったのだ」 岸敬雄伝道師
聖 書 サムエル記上2章1~8節 ルカによる福音書24章1~12節
本日の旧約聖書の箇所であるサムエル記上2章1~8節はハンナの祈りの一部です。ハンナは不妊の女として苦しんでいました。そんなハンナは神に自分の苦しみを注ぎだして祈ったのでした。するとハンナの祈りは適えられ、男の子が与えられたのです。その男の子はサムエルと名付けられ、神様に捧げられ、成長して預言者となり、民を導く者となり、神様のご指示で、王となるサウルやダビデに油を注いで王とした人物です。
ハンナは、自分の祈りがかなえられた喜びを祈りの中で「主にあってわたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き、御救いを喜び祝う。聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。」と言うのです。
聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいないと声高々に賛美しているのです。当時のイスラエルは、色々な国に囲まれ、言い換えると色々な神に囲まれている状況の中で、聖なる方は主のみ、あなたと並ぶものはだれもいないと言っているのです。自分たちの唯一の神である主なる神に対するゆるぎない信仰と、その神から与えられた祝福に感謝している様子が伺えます。
それと比べて、本日読まれました新約聖書に出てきた婦人たちはどの様な状況だったでしょうか。彼女たちは、悲嘆に暮れていたに違いありません。なぜなら自分たちの心から尊敬していた先生であるイエス・キリストが十字架にかけられ、死んでしまったのです。その上、自分たちの手で弔う事も出来なかったのです。できた事と言えばイエス様が弔われた墓を確かめて帰って来ることだけだったのです。
そんな彼女たちは、それでも自分たちに出来ることを行おうと香油の準備などを行っていたのでした。ただ、イエス様が墓に収められた翌日は安息日だったために、安息日が明けるのを待って、週が明けた日曜日の朝に、イエス様の体に香油を塗るために以前確かめておいたイエス様の墓へと向かったのでした。
墓に向かった婦人たちは一人ではなく、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちと言われているように複数でしたが、男の弟子たちは墓には一緒にはいかなかったようです。そんな婦人たちにとっては、一つの懸案がありました。それは、墓の蓋としておかれている石をどの様にして動かすかと言うことでした。
しかし、墓についてみるともうすでに石は脇に転がされていたのです。そして墓の中にはイエス様のご遺体は見当たらなくて、 皆は途方に暮れたのです。すると輝く衣を着た二人の人がそばに現れたのでした。そして、 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人はこのように言ったのでした「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」と言ったのです。この様に言われてはじめて婦人たちもイエス様が以前言われていた言葉を思い出した。
そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせたのでした。しかし、婦人たちの言っていることを、十一人、すなわちイエス様の一番近くにいた弟子である十二使徒をはじめ一番イエス様の教えをよく聞いていたはずの弟子たちですら、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかったのでした。そして、話を確かめに行ったのは、ペトロだけだったと書かれています。ペトロも空の墓を確かめて、この出来事に驚きながら家に帰ったのでした。復活の出来事はまさに、イエス様から以前から話を聞いていた弟子たちにとってすら到底理解できない不思議な出来事だったのです。
しかし、その到底理解できないような出来事を復活したイエス様と出会うことにより、聖霊なる神により竣工を強められ、復活の出来事は信仰のかなめ石となり、自分の命をかけてでも守りぬく信仰の中心となっていったのです。
私たちに対しても同じ信仰が、今も神様から与えられているのです。私たちは、聖書に出てきている弟子たちと同様に復活したイエス様に出会って、永遠のいのちへの希望を与えられて、信仰生活を送っているのです。これからも復活した主イエス・キリストに寄り頼んで歩み続けるのです。