過去の説教

受難節第6主日礼拝

(棕櫚の主日) 

説 教 「主の助け」    岸敬雄伝道師

聖 書  イザヤ書50章7~10節 フィリピの信徒への手紙2章5~11節

 棕櫚の主日を迎えました。主イエス・キリストがエルサレルムに入城を記念する日です。

 マタイの福音書などにあるイエス様をエルサレルに迎える状況を見てみると、熱狂的なものであったことをうかがい知ることができます。

 イエス様が子ロバに乗ってエルサレルムに入城する時には、その途上の路上に人々は道自分の服や木枝を敷いて「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」と、歓喜の声を上げてイエス様を迎え入れたのでした。

 以前は木の枝は棕櫚の葉のような大きな葉だと考えられていて棕櫚の主日と言う名前がついていますが、エルサレルの付近には棕櫚が生えていなかったため、おそらくナツメヤシのなどの葉を枝ごと折り取って来たのではないかと今では思われています。今後は枝の主日と言われるのが一般的になっていくのかもしれません。

 聖書の翻訳には時として意味を分かりやすくするのを優先している翻訳もあります。新共同訳聖書では服となっていますが、他の日本語訳聖書では、以前の口語訳聖書を含め上着となっています。今回新たに翻訳された聖書協会共同訳聖書でも上着と翻訳されています。確かにギリシャ語の聖書を見ると服と言う様な単語が使われていて、上着に限定できないようにも思えます。しかし、人々は自分の寝具として使うような大切な上着を地面に引いた聖書は伝えているのではないでしょうか。そして、言ってみれば上着を持っていない様な貧しい人々は、そこいらに生えていた木から枝についている葉を取ってきて地面に引いたと言うのです。

 聖書の内容からそこ紙脱線してしまいましたが、人々が狂喜乱舞して迎え入れた状態から、わずか数日後にイエス様を十字架上に送ることを考えると、その反応は、まさに人の罪が内在していることを思わされます。

 この様な騒然とした状況に、ファリサイ派の人々が群衆の中からイエス様に向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言ったのでした。騒いでいるのはイエス様の弟子だと限定しているようです。 イエス様はお答えになって、「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」と言われ、弟子たちに限定するのではなく、全てのものが叫んでいる、そして無理に止めようとしても石が叫び出すと言うのです。

 しかし、本日のフィリピの信徒への手紙で、『すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。』と言っているのと、イエス様をエルサレルムに迎え入れた人々の歓喜とは異なっているように思えます。

 どこが違うのかと言えば、エルサレルムの人々は、なぜイエス様のことをどの様なお方だと思って迎え入れたのでしょうか。それは、イエス様が主の名によって来られた方であり、自分たちの王として迎え入れたのでした。

それは、現実の王としてであり、ローマから自分たちを救い出してくださる人だと思っていたのです。

 しかし、フィリピの信徒への手紙で示されているイエス様についての理解は、イエス様が十字架の上で命を落とされた後、三日後に天父なる神によって、イエス様が復活させられた後に、弟子たちがはっきりと理解されたことなのです。だからこそ、「これから後互いにこのことを心がけなさい。」と勧めているのです。

 ではどのような事を心に留めなければ成らないと勧めているか整理してみたいと思います。

 イエス・キリストは、神の身分であられました。まさに天父なる神と等しいものであられたのです。聖霊なる神と共に三位一体の神として、私たちはイエス様と天父がともに神であることを証しするのです。ここでは聖霊は出てきていませんが、まさに三位一体の神の原型が現れていると思われます。さらに、神であるイエス様は、その立場に固執しようとはされなかったと言うのです。

 固執しなかったばかりか、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられたのでした。そして、私たちでは外見的には見分けがつかない人間の姿となって、私たちの歴史の世界へと現れて下さったのです。それではなぜ人間の姿で私たち人間の歴史の中へと現れて下さったかと言えば、私たちのために、私たちの僕としての身分に成って下さるためだと言うのです。

 そして、へりくだられて、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順だったと言うのです。誰に対してへりくだって、従順であったかと言えば、それは、もちろん天父なる神に対してであります。

 このようなイエス様に対して、天父なる神は、キリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになったと言うのです。

 エルサレルムの人々はイエス様を自分たちの王であると言って歓喜していました。確かにイエス様は王であることは違いがありませんが、エルサレムの人々は自分たちの目に見える王だと考えていたのです。自分たちをローマから救い出してくださる王だと。その様な期待を込めて歓声をあげていたのです。

 しかし、実際のイエス様は彼らの期待とは異なっていたのです。その違いによって、わずか数日後にイエス様を十字架へと追いやる事に成るのです。

 それに対してフィリピの信徒への手紙では主イエス・キリストの真実の姿を私たちに伝えようとしているのです。なぜなら、イエス・キリストこそが私たちに対する、天父なる神からの助けだからです。人である私たちは、今はまだイエス様の全てのことが理解できていないかもしれません。しかし、私たちの救いに必要な全てのものを与えられているのです。そして、私たちは、神である主イエス・キリストに従って行くことが出来るのです。

 

 

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