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永遠の救いの源

受難節第5主日礼拝 

説 教 「永遠の救いの源」

  岸敬雄伝道師

聖 書  詩編110編4~6節 ヘブライ人への手紙5章5~10節

 イエス・キリストとはどのようなお方でありましょうか。私たちはそんなことを聞かれたとしたら、色々な言い方が頭に浮かぶのではないでしょうか。

 私でしたら、一番短い言い方で言えば、主イエス・キリストと言う事に成るでしょうか。私たちの主であり王であるイエス様であります。

 もっと言えば、父・子・聖霊なる神の御一方である神であられるイエス・キリスト、そして私たちの救い主としてのイエス・キリスト、私たちの罪を贖って下さった罪の贖い主であるイエス・キリスト、そして、私たちと共に苦しんでくださる、人としてのイエス・キリスト、それとともにこの地上で唯一罪を犯されなかった御方であるイエス・キリスト、ほかにイエス様の特徴を挙げて行けばもっと出てくるのかもしれません。

 本日のヘブライ人への手紙作者はイエス様のことを大祭司と呼んでいます。ブライ人への手紙作者は「キリストも、アロンのように神によって召されて、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではない」といいます。そして、「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が大祭司に召したのだと言うのです。

 この、「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方はどなたかと言えば、本日読まれたかその直前の4節で、「また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。」と言われているように、神であることは確かです。ではなぜわざわざ、「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方、と言っているのでしょうか。

 それを知るにはこの言葉が、元々どこで言われていたかを見ることが大切だと思います。元々の場所だと思われる箇所は、旧約聖書の詩編2編7節で、『主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。』だと思われます。

 ここで「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。」と言っているのは主であります。確かに天父なる神が言われていることがわかります。さらに父なる神と子なる神であるイエス・キリストとの関係を強調したかったのではないかと考えられます。

 だからこそ続いて、神は他の個所で、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と言う様に、神がイエス・キリストのことをメルキゼデクと同じような祭司だと言っているのです。

 メルキゼデクとはどのような祭司だったのでしょうか。メルキゼデクと言う人物がはじめに出てくるのは、旧約聖書の創世記で、王の一人としてです。

 創世記14章17~20節でアブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来た時、シャベの谷、すなわち王の谷までアブラムを出迎て祝福した人物です。アブラム、後に名前が変えられてアブラハムとなりますが、そのアブラムに祝福を与えてくれたのがメルキゼデクで、その祝福に対してアブラムは、すべての物の十分の一を彼に贈ったのでした。

 この様にメルキゼデクは、いと高き神の祭司でありアブラムを祝福して十分の一を贈られた人物ですが、さらにヘブライ人への手紙においては、人としての意味だけではなく、神の特別な祭司であると言う、祭司を代表する役割の者として、大祭司と言う様に描き出されているのです。

「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」とヘブライ人への手紙の作者は言います。なぜ、神であられ、完全であられるはずの御子イエス・キリスト多くの苦しみによって従順を学ばなければ成らなかったのでしょうか。

 それは、イエス様は確かに完全である神であられましたが、それと共に、私たちと等しい人に成られたのです。だからこそ、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」と言うのです。「肉において生きておられたとき」とは私たちと同じ人として生きておられた時のことを言っているのです。

 そして、人として生きている時には、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、まさに私たちと同様の苦しみの経験を味わいながら、御自分を死から救う力のある方、すなわち、天父なる神に、祈りと願いとをささげられ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられたと言うのです。

 それでは、何が聞き入れられたかと言えば、主イエス・キリストは完全な者となられたのだと言っているのです。それはまさに天父なる神に完全に従順であることにより、天父なる神と御子イエス・キリストは神として完全に一つであられるのと同様に、人としても天父に完全に従順であったと言う形で完全となられたのです。

 完全なものとなった象徴として、神からとこしえの祭司、主の正しい王として、メルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのと言っているのです。

 人としてのメルキゼデクがイエス・キリストより上にあったと言っているのではなく、とこしえの祭司の象徴としてのメルキゼデクと同じような大祭司と言っているのです。

 そして、天父なる神様に対して従順となられたイエス様は完全なものと成られたからこそ、御自分に従順であるすべての人々に対して永遠の救いの源となられたのです。

 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれたのは、私たちのためであり、私たちもまた、主の御苦しみから学び、自分に与えられた苦しみの中から従順を学んでいかなければ成らないのです。

私たちが従順を学ぶことにより主イエス・キリストは私たちの永遠の救いの源となって下さるのです。

 イエス・キリストの特徴として、私たちの永遠の救いの源であることを、もう一度心に刻み付けておく必要が、私たちにはあるのではないでしょうか。

 

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