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苦難の時にも

説 教 「苦難の時にも」

                                              岸敬雄伝道師

聖 書  イザヤ書54章7~10節 コリントの信徒への手紙二 1章3~7節

 

 

 あの東日本大震災から10年が経ちました。かの津波の光景を見て、その後の様子をテレビで確認した時の衝撃は今でも忘れられません。

 私の住んでいた神奈川県の相模原市でも大規模な停電が起き、テレビで確認するのも少し時間が経ってからに成ってしまいましたが。私の祖母も宮城県の出身で、最上川の川沿いに実家がありました。幸い古い家だったので、今は誰も住んでおらず、被災したとの連絡は、その後もありませんでしたが、その光景を見た時、神様が沈黙しておられるような気がしたのを今も覚えています。

 東日本大震災は決していまだに終わってはいません。そして、それ以外の大災害などに出会うと、神がどうしてこのようなことをお許しに成るのかと思ってしまうことは今でもあります。

 苦難の中にある時、神の存在を忘れてしまいそうになる。そんな時、本日のイザヤ書では、「わずかの間、わたしはあなたを捨てた」と主は言われています。もしそれだけだとしたら、私たちには救いは無いように思われます。しかし、続いて、今は深い憐れみをもって引き寄せ、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと言われるのです。それは贖う主にとっては、ノアの洪水の様であると言うのです。

 ノアの洪水の様であると言う意味は、「再び地上にノアの洪水を起こすことはないとあのとき誓い、今またわたしは誓う再びあなたを怒り、責めることはない」と言われるのです。

 ノアの洪水において行われたように、この地上の物を降水において全てぬぐい去るようなことはしないと、約束されたのでした。この洪水の出来事は、創世記8章、9章に出てくる物語であり、ノアは洪水の水が引いて外に出ると、はじめに行ったことが神に対して宥めのいけにえを捧げることでした。神は、この宥めのいけにえの香りを嗅いで、二度と人をこの地上から洪水によりぬぐい去るようなことはしない、そのように言われたのです。そして、そのしるしとして、天に虹を掛けて、そのしるしであると言われたのです。この出来事は、虹の契約などと呼ばれています。

 洪水の時に誓った様に、今もびあなたを怒り、責めることはない、と誓われると言うのです。それは、「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。」しかし、それであっても、「わたしの慈しみはあなたから移らず」にあると言うのです。どのような事が起ころうとも、決して変わる事が無いと言われるのです。

 そして「わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはない」その様に言われるのです。そしてさらに、先には「あなたを贖う主」と言っていたのに加えて「あなたを憐れむ主は言われる。」と言うのです。

 イザヤ書では、私たちを贖う主からの慈しみが決して取り去られる事が無いことが語られますが、本日のコリントの信徒への手紙二 1章では、パウロは、苦しみに対してゆるぎない希望を持っていると言うのです。何による希望かと言えば、「慰めをも共にしていると」からであり、もっと詳しく言うならば6節で言っているように「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。」と言っている通りです。

イザヤ書では、神による救ういの確かさが語られていましたが、コリントの信徒への手紙二 1節においては、神から与えられた慰めを他の人々へ互いに慰め合うことが出来るもであることが語られ、それに対する希望が語られています。

 はじめに、キリストの苦しみが満ちあふれて、それがわたしたちにも及んでいることによって、わたしたちにとっての慰めとなるのであり、私たちはキリストによって満ちあふれていると言うのです。

 キリストの苦難は誰のための苦難でありましょうか。神の独り子が、罪の無いお方がなぜ苦しまれなければ成らなかったのでありましょうか。それは言うまでもなく私たちのためであります。繰り返し主イエス・キリストの苦難が語られる時に、それが私たちの恵みであることを忘れてはならないのです。

 そして、キリストの苦しみが私たちの恵みとして及んでいるように、パウロは自分たち使徒たちが悩み苦しむ時、それはあなたがたの慰めと救いに成ると言うのです。

 それと共に、使徒たちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるというのです。

  だから、あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るがないと言うのです。 現在苦しみにあるとしても、それと共に慰めが与えられるという希望があるのです。主イエス・キリストの救いのための苦しみが、私たちの慰めとなったように、私たちの苦しみもいつかはほかの人の慰めとなると言うのです。

 苦しみが、慰めにかわる、主イエス・キリストの苦しみが私たちの慰めにかわったように、私たちも他の人の慰めとなる為に苦しむことが出来る様にありたいと願うのです。

 

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