過去の説教

愛が無ければ

説  教 「愛が無ければ」   

岸 敬雄伝道師  

聖 書 箴言14編16~22節 コリントの信徒への手紙一13章1~13節

 

 

 パウロは、愛がなければどのようなものも無に等しい、といって言います。なぜ愛がないと全てのものがむなしくなってしまうのでしょうか。そしてそこまで言われている愛とはどの様なものなのでしょうか。

 パウロは、人々の特別な能力としての異言や、その中でも天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバルだと言うのです。

 異言とは当時特別に敬意を払われていた能力でした。次に出てくる預言のように具体的に神様のご意思を伝えるよりも上位にあるものとすら考えられていたのです。神様の言葉のようにわけの分からない言葉を話し、それを他の人が通訳することによって、漸く私たちにも分かるように成ると言うのです。そんな特別なことばを話せたからといっても、愛がなければ騒がしいどら、やかましいシンバルだと言い、意味がないと言うのです。

 さらに、「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」と言うのです。

 先にも言いましたが、神様の思いを伝えたり、先のことを見通す様な預言する賜物を持っていたとしても、具体的に山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しいと言うのです。山を動かすほどの完全な信仰があったとしても愛がなければ無に等しい、それほどに愛は大切なものであり、絶対に必要なものだと言っているのです。

 人から見て素晴しいと思われる能力や知識があろうとも、愛がなければ無に等しいと言うのです。

 そして、 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない、と言うのです。

 私の様な何も財産がないものが、ささやかなものを捧げていたとしても誰も気すら付かないかもしれませんが、貧しい人々のために、多くの財産を持っている人がささげたとしたら、その人は立派な人と思われるのでしょうか。確かに多くのものを捧げられる人は立派な人です。しかし、そこに愛がなければ何の益もないと言うのです。

 誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。とパウロは言います。イエス様はヨハネによる福音書の15章13節で「友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない」と言われましたが、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もないと、パウロは愛の大切さについて命を捨てると言う行為の上に置くのです。

 パウロは、誇ろうとして、という自分の思いによってではありますが、わが身を死に引き渡たすというこういでも、それは愛が前提に無くてはならないのであり、そうでなければ、わたしに何の益もない、というのです。誇ろうとする、との条件をつけてはいますが、そうすると自分のためとなってしまい愛がなくなりなり、何の益もないと言うのです。

 それだけ愛が大切だと言うのです。では、それほど大切だと言われている愛とはどの様な物なのでしょうか。日本語で愛と言う言葉は、一つしかありませんが、新約聖書において、愛は、大きく3つのギリシア語が使用されています。

 まず、男女間の愛に代表される(エロース)、兄弟愛である(フィリア)、そして神の愛avga,phn(アガペー)があります。

 ここでコリントの教会へと手紙をはじめ、聖書で使われている愛の多くは、神の愛であるavga,phn(アガペー)です。

 avga,phn(アガペー)が使われている愛は、忍耐強く、情け深い。そして、ねたまない。自慢せず、高ぶらない。と言うのです。さらに、 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える、と言うのです。

 このように、神様の愛が持っている特徴をパウルは列挙しています。ここにあげられている事項によって、私たちが現在自分が抱いている愛が神様の愛であるかどうか吟味することが出来るのではないでしょうか。

 私たちの抱いている愛は、忍耐強く、情け深く、ねたまない。自慢せず、高ぶらない。さらに、 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える、その様な愛に成っているでしょうか。

 そして、神様の愛は決して滅びることはないと言うのです。私たちが誰かに傷つけられてしまったり、失望する出来事、親しい人との別れなどを経験して到底愛など持ち続けることができないように思える時が来たとしても、神様の愛は決して滅びることはないと言うのです。

 預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの身に着けた才能や知識はすたれて行くとしても、人間の持っている物は限定的なものであり、限界があり、いずれは廃れてしまう。しかし、神の愛は廃れないのだと言うのです。だからこそ、「 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」と言うのです。私たちが今持っているものは部分的なものは廃れ、愛以外のどの様な素晴らしいものに見えているものでも、これから来る完全なもの、すなわちイエス様が訪れる時には廃れるものだと言うのです。

 さらに、「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。」と言うのです。私たちが信仰を持った初めの頃には、幼い信仰であり、幼い考え方であったと言うのです。しかし「成人した今は、その様な幼い考え方を棄てた」と言い切るのです。

 「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」と言われているように、現在はっきりとわかっていないものであっても、時が来ればはっきりわかるようになると言うのです。

 それでは、そのときとは何時のことなのでしょうか。それはまさに、イエス様が再びこの地上においでになる時、再降臨の時であり、全ての奥義が明らかにされる時のことです。

 パウロは、最後まで残るものに愛に加えて信仰と希望を入れて三つとしています。全てのものが滅んだとしても、信仰と、希望と、愛、の三つだけは残ると言うのです。その中で最も大いなるものは、やはり愛であるというのです。愛の偉大さをここに来てもまた強調しているのです。

 私たちは神様の愛によって初めて存在するものとされた者なのです。だからこそ、私たちも神様の愛をもって、今は一部しか知らなくとも、信じて歩んで行くことが出来るのです。

 

 

 

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