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両刃の剣より

説  教 「両刃の剣より」   

岸 敬雄伝道師  

聖 書 詩編33編12~15節    ヘブライ人への手紙4章7~13節

再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、

「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、

心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。

本日はじめに読まれた聖書箇所の始めの箇所をもう少し分かりやすくするために、新しく翻訳された聖書協会約共同訳聖書から読んでみたいと思います。聖書協会約共同訳聖書ですとヘブライ人への手紙04章 07節は

『神は、改めてある日を「今日」と定めて、すでに引用したとおり、長い年月の後に、ダビデを通して言われました。

「今日、あなたがたが神の声を聞くなら

心をかたくなにしてはならない。」』と言う事に成ります。

 続く8節で、「もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。」と続いていることから、神が今日と定められたのは安息と関係あることが考えられます。

 ヨシュアとは何をした人でしょうか。彼はモーセの後継者としてエジプトを出てきたイスラエルの民を約束の地へと導いた人です。ヘブライ人の手紙が書かれた時には安息とはこの約束の地に入った時に成し遂げられたというように考えていた人々がいた事がもとにあります

 しかし、それよりずいぶんに時間が経た後に、ダビデによって神様が今日とさめられた日について、「きょう、み声を聞いたなら、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」と改めて言われたのだと言うのです。

ここでダビデによって言われたとは、95編8節「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように心を頑にしてはならない。」と言うのを引用してきたものです。

 「荒れ野のメリバやマサでしたように」と言う様に、出来事は、は出エジプトの出来事であり、イスラエルの民が神様の逆らった出来事です。それを、かなりの時間が経た後に、ダビデを通して改めて神様は語られたと言うのです。出エジプトに時代から旺盛となったダビデの時代まで水分時間が経ったのちに改めて神は語られていると言うのであります。

 ヘブライ人の手紙の作者の思いの中には、安息はイエス様が再降臨される、終わりに日に救いに入れられた時、初めて成就するものだと言う考え方があるのは確かです。

 それでは、ここで言われている安息とはどの様なものについてでありましょうか。神はある日を「今日」と決めてとは、今日とは安息に対しての今日であり、神が休まれたことを記念していわわれた、安息日についてだと言って良いと考えられます。

 ただ安息日とはどの様なものか、それは約束の地に入ることではなかったのだと言うのです。そして、その完成を最後の終わりの日に見出しているとしたら、「わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか」とはどのような事に成るのでしょうか。神の安息にあずかるために努力する必要がなぜあるのでしょうか。

 昔の言葉に、仕事の虫などと猛烈社員などと言う言葉がはやったことがありました。一日十何時間も働いて、休みの日まで働いている様な社員の事でした。その様な人たちは働くことが中心で休憩するのに苦労したのかみ知れません。決して勤勉なことは悪い事ではありません。しかし、その様な人たちにとっては、安息を取るのに努力する必要があったのとも意味が違いそうです。

 安息というと、私たちは休み、休憩と言うように考えがちです。確かに神様は、6日の間働いてこの地上をお造りに成り、7日目に休まれた、それが主の安息です。

 しかし、私たちが今安息日としているのは週の初めの日の日曜日を安息日としてします。それは、日曜日が主イエス・キリストが復活した日だからです

 キリスト教徒にも、それはおかしいとして、土曜日に安息日としようと考える人々も一部にはいますが、ほとんどのキリスト教徒は安息日を日曜日としています。

 このことから考えると、安息日は、ただ単に休憩する日ではないことが分かってくるのではないでしょうか。安息日は休憩する日ではなく、神のわざを記念してほめたたえ礼拝する日なのです。だからこそ、もし安息日が無くなるとしたら、全てのことが成し遂げられて、毎日が主を賛美する日となった時にほかなりません。

 だからこそ、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しないと、「さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。」と言われているのであり、安息にあずかるように努力しなければ、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれないと言うのです。

 それは、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」と言うのです。

 神様の言葉は、心の思いや考えを見分けることが出来ると言うのです。それはまさにどんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通すと言うのです。

 「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。」と、神様によって全てを見通されているのだといっているのです。

 この様なすべてをされる神様に対して「わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」私たちは何も覆い隠すことなく神様の前にさらけ出して、申し述べなければ成らないのです。

 私たちのことをすべて見抜かれる神様に対して、私たちはどの様な態度が取れるでしょうか。それは、決して自分を飾り立てたりすることなく、全てありのままをままにさらけ出すのです。そしてすべてを神様にお任せして、心から讃美を捧げるのです。そして神に従って歩み続けて行くのです。その為に安息日はあるのです。

 

 

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