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自分自身を

説 教 「自分自身を」    

 岸 敬雄伝道師  

聖 書 箴言24編13~16節  コリントの信徒への手紙二4章5~10節

 

 パウロは、「 わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」と言っています。

 パウロは、「わたしたちは」と言う様に、パウロだけではなくパウロと共に働いている人々はみな、自分自身を宣べ伝えているのではなく主であると言いイエス・キリストを宣べ伝えているのだと言うのです。そして、パウロたちは、誰のために働いているのかと言うと、それは人の為ではなく、イエス様のために働いているのである、と言うことを強調したいのです。

 だから、あなたがた、すなわちコリントの教会の人々に対して僕となっていると言うのです。自分が立ち上げた教会に対して、指導者としてではなく、使える者としてあるのだと、パウロは言っているのです。

 そして、パウロは、本日読まれました聖書箇所の前の4節で世の中の人に対して、「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにした」と言っているのに対して、私たちに対しては、「神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」と言うのです。

 神様から与えられた光とは、言わばイエス様のことを理解する知識だと言いえることが出来ます。その様なイエス様のことを知る知恵は、箴言言えば、「魂にとって知恵は美味だと知れ」というのです。そして、更に箴言では「それを見いだすなら、確かに未来はある」と言うのです。

 さらにその先に言われているように「希望が断たれることはない」のです。それは、私たちにとっても当てはまることであり、神の栄光を悟る光は私たちにとっても希望の光であると言う事が出来ましょう。

 そして、パウロが今希望を持っているとしたら、その源はどこにあるのでしょうか。それは、神様によって「闇から光が輝き出よ」と命じられた経験からではないでしょうか。この、「闇から光が輝き出よ」と神様がパウロに命令されたのは、使徒言行録9章からに書かれているパウロ回心した経験から来ているものと思われます。

 パウロが復活したイエス様とダマスコへ行く途中に出会った出来事のことで、パウロはその時、イエス様の掛けられた言葉を聞き、そして一時光を失い盲目となりました。しかし、福音を述べ伝える使命のために、再び光を取り戻すことが出来たのです。

 その経験をよりはっきり示しているところとしては、使徒言行録26章でアグリッパ王の前で自分の回心談を述べている場面などを見てみるとより分かりやすいのではないでしょうか。

 パウロは、闇から光に立ち返らされたように、自分に与えられた「心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を」並外れて偉大な力が神のものであって、「たしたちから出たものでない」とはっきりと言っていますが、確かに私たちから出た者ではない、言い換えるならば、私たちの努力によって得たものではなく、神様から与えられた力です。この栄光を悟る光を、パウロは「宝だ」と言っているのです。その宝を、パウロは「土の器に収めています」と言うのです。

 土の器とは、パウロが回心した時に、主はパウロのことを「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」と言われています。

 回心前のパウロは、キリスト教徒を迫害していました。そんなパウロを神様は、自分が「わたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器」だと言われたのです。それに対して、パウロ自身は、自分のことを「土の器」と言っているのではないでしょうか。

 それは、謙遜して言っていることも確かでしょうが、主が私たちの中に入れてくださり「わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」という素晴らしい宝に対して、対比するために、神の栄光を悟る光に比べて、自分は土の器であると言っているのです。

 私たちが日ごろ使っている焼き物のような器と言うよりも、もっと粗末な、壊れやすい粗悪品である、取るに足らない代表として、土の器であると言っているのです。

 そんな、粗末な器である私たちの中に、この並外れて偉大な力である「神の栄光を悟る光」が入れられたのです。そして、パウロは「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています」というのです。「イエスの命がこの体に現れるために」それは、イエス様の十字架上の死によって、私たちに与えられて恵みが現れる為だと言い、さらに、パウロは、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」 と言うのです。

 どの様な迫害、苦境にあるとしても、決して失望したリ打倒されも滅ぼされることはないと言うのです。箴言で言われているように「神に従う人は七度倒れても起き上がる」と言うのと同じです。

 私たちも、パウロと同じ信仰を持ちつつ、苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せずに主の十字架を述べ伝えていきたいと願うのであります。決して自分自身を述べ伝えるのではなく。

 

 

 

 

 

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