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人の知恵によってではなく

説  教 「人の知恵によってではなく」   

 

聖 書 イザヤ書65章17~19節 コリントの信徒への手紙一2章1~10節

岸 敬雄伝道師 

 パウロは、そちら、すなわちコリントの教会へ行った時に、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに、優れた言葉や知恵を用いなかったと言うのです。

 パウロは、以前はパリサイ派に属して、大変熱心なユダヤ教徒でした。知識としては、イエス様の最初の弟子であるペトロやヨハネ、ヤコブやアンデレたちのような漁師とは違い、多くの知識を持っていたはずでした。しかし、その様な、人としての優れた言葉や知恵を用いなかったと言うのです。

 なぜ、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いなかったかと言えば、それは、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたから」だと言うのです。

 パウロは、コリントの教会に行った時、自分の豊富な知識から優れた言葉によって語るのではなく、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト」だけをかったるようにと心に決めていたと言うのです。

 コリントの教会へ行った時のパウロ自身の身体状況は、「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」と人としての弱さを、表していたことを告白するのです。

 そんな人の弱さの中で、パウロの宣教は「知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるもの」だったと言うのです。

 人の力によるのではなく、霊、すなわち神様の霊、聖霊の力と証しによる証明によるものだと言うのです。誰の力かと言えば、それは神様の力による証明、すなわち、神様の力によって与えられた証しによって言葉を語ることも、宣教する事も、全ては神様の力による証明によって行ったのだと言うのです。

 なぜ、自分の力で行うのではなく、聖霊と神様の力によって行ったかと言えば、それは、パウロが宣教していた相手に対して、「神の力によって信じるようになる」事が目的だったからだと言うのです。

 まず初めに、神様の力を信じることが必要であり、神様の力は、イエス・キリストのことだと言うのであり、そして、更にダメ押しするように、十字架につけられたキリストについてだと言うのです。

 十字架につけられたキリスト、その十字架につけられた救い主が、私たちの救い主である。そのことを聖霊と神様の力によって語ったのだと言うのです。

 イエス・キリストがなぜ十字架につけられたのか。それは私たちの罪のためであり、私たちの信仰の中心となる事態だから、それだけを、語ったのだと言うのです。

 それに加えて、「信仰に成熟した人たちの間では知恵を語」ると言うのです。ただし、その知恵とは、「世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でも」無いと言うのです。そして自分が語るのは「隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が、わたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもの」だというのです。

 隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神様がこの世に始まる以前から用意していてくださった知恵であり、この知恵の目的は、神様がパウロたちに栄光を与える為だったと言うのです。

 ただし、この知恵は、この世の支配者たちはだれ一人この知恵を理解していなかったと言うのです。「もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」と言い、イエス・キリストを十字架につけたのは、この神様の知恵を知らなかったからだと言うのです。

 人には、見ることも、聞くことも、思い浮かぶことすらも出来ない事を、「神は御自分を愛する者たちに準備された」と言うのです。

 では、見ることも、聞くことも、思い浮かぶことすらも出来ない事を、私たちには、人の知恵によってではなく、何によって理解することが出来ると言っているのでしょうか。それは、神様は「御自分を愛する者たちに準備された」ご自身の霊によって、すなわち、聖霊の力によって理解させて下さると言うのです。

 私たちは、神様の隠されていた、神秘としての神の知恵を知ることが出来るのは聖霊の力によってなのです。

 しかし、反対に言うならば、この世の知識を持たないものであろうとも、神の知恵を知ることは許されるのです。もっと言うならば、聖霊によって示されることがあるとするならば、全ての人が神の神秘を知ることが出来るのです。

 そして、この神の神秘の中心には主イエス・キリストがいるのであり、そのイエス・キリストの十字架の出来事があるのです。まさに、それが私たちの信仰の中心、核なのです。

 人の知恵では到底理解できない事であろうとも、人の知恵によってではなく神の霊である聖霊の力によって、神様は私たちに知らしめてくださるのです。

 

 

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