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キリストに結ばれて

顕現後第1主日礼拝

説 教「キリストに結ばれて」

聖書 イザヤ書42章1~9節 ローマの信徒への手紙12章1~8節

岸 敬雄伝道師

 

 パウロは「神の憐れみによって」あなたがた、すなわち私たちに勧めを始めます。そして、このパウロが勧める内容は、神様がわたし達を憐れんでくださり、パウロに勧めさせているのだと言うのです。

 そして、その内容とは、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」というのです。何故、捧げなければ成らないかと言えば、「それがあなたのなすべき礼拝」だからだと言うのです。

 では、礼拝について皆さんはどの様にお考えでしょうか。聖書辞典によれば、礼拝は、「広い意味においては、絶対者(神)と出会い、それに対して崇敬の念を表現する一切の行為をいう。」となっていました。崇敬とは、あがめ敬うと言った方が分かりやすいかもしれません。

 神様をあがめ敬うことが礼拝だと言うのです。そして、キリスト教においては、神学の一分野である、実践神学の一部門となるほどに研究がなされているほど重要で、幅広いものであるとも言えます。

 どの様に礼拝が行われてきたかを、歴史的に見て行くと、旧約聖書の時代には、はじめは適当と思われるヵ所に石などを積み上げて祭壇を作り、生贄などを捧げて礼拝をしていました。それから、定着してくるようになると、神様と相まみえる所として聖所とされる所が定まり、特別な祈りや生贄がささげられるようになりました。

 その後、旅をしていた時には、持ち運びができる神殿の簡易版ともいえる幕屋が作られ、その内外で礼拝は捧げました。神殿が建設されると、神殿で供物と生贄をさげる神殿礼拝が中心に行われるようになりました。しかし、その様な神殿中心の礼拝を批判する精神的、内面的な礼拝を強調する預言者も現れたりしたのです。

 神殿が破壊されるとシナゴーグ(集会所)の集会による礼拝が中心となり、神殿再建後には神殿とシナゴーグの二つで並列的に礼拝は行われるようになりました。

 そのように、神殿とシナゴーグで行われている礼拝に対して、イエス様は「霊とまことをもって」礼拝を行う様にと勧められたのでした。礼拝とは、讃美歌を歌い神様を賛美し、聖書から御言葉を聞いて、御言葉の解き明かしである説教を聞き、献身のしるしとしての献金を捧げるだけの行為ではないと言うのです。その様な行為の中に、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして」、献げる事が無ければならないと言うのです。

 旧約時代のように動物などを生贄として捧げるのではなく、私たち自身を捧げるように、それも動物たちのように殺して捧げるのではなく、生きたままで捧げることこそが、礼拝する事であり、神様をあがめ敬うことだと言うのです。私達自身を捧げると言えば、確かに私たちは、献身のしるしとして献金をお捧げします。ある意味で、私たち自身を捧げる行為の象徴として、献金がささげられていることは確かです。

 しかし、「パウロは、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」るようにと言うのです。まず私たちの体が神に喜ばれる聖なるいけにえとすることが出来るのでしょうか。そして、生きたままで生贄として捧げることが出来るでしょうか。いったいどのようにすればそのようなことが出来るのでしょうか。

 パウロは、続けて「この世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」と言うのです。

 どの様にすれば良いか。それはまず世に倣ってはならないと言うのです。世の中に倣うのではなく、世の中の考え方から心を新しくして、私たちを神様によって変えていただくようにと言うのです。その上で、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」というのです。何が神の御心であるか、それを細かく見て行くと、何が善いことで、その善いことの中で、神に喜ばれ、完全な事をわきまえろ、と言うのです。

 ならば、何が善い事で、何が神の喜ばれる完全な事なのでしょうか。ここで言う完全な事を考えるにあたり、その先で、パウロは、「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」と、自分を過大評価することを、戒めているのです。自分を戒めて過大評価しないことが善いことであり、神に喜ばれること、または、喜ばれることに繋がるのだと言っているのです。そして、神様が分け与えて下さった信仰に応じて慎み深く評価するようにと言うのです。

 私たちが完全ではない事は当然です。では誰が完全なのでしょうか。私たちが思い当たるお方は御一方しかいないのではないでしょうか。完全なお方は独り子である、主イエス・キリストお一人だけです。

 不完全な体の部分の一つ一つのような私たちが、この完全であられる主イエス・キリストに結ばれて、一つとなり、初めて完全な事を知ることが出来るのです。

 そして、キリストのからだである教会に結ばれて、わたしたちは、自分たちに与えられた恵みによって、言い換えるなら、神様から与えられている賜物、タラントによって、奉仕すべきだ言うのです。

 体の各部位、手や足、頭や眼や耳、内臓などそれぞれの働きをしていますが、それと同じように、それぞれが与えられた、恵みによって、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念し、また、教える人は教えに、 勧める人は勧めに精を出し、施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行おこなうのです。

 それが、欠点を持っている私たちが完全なイエス様とつながる、真の礼拝を捧げる方法だとも言えるのです。イエス様の体である教会と結ばれ、奉仕できることも、またある意味で奉仕を受けることも奉仕をする事と同じような、私たちに与えられている恵みなのです。

 日々の礼拝の中において、車の両輪のように、讃美歌を歌い神様を賛美し、聖書から御言葉を聞いて、御言葉の解き明かしである説教を聞き、献身のしるしとしての献金を捧げる行為と共に、自分に出来る奉仕を考えて行くことは大切なのではないでしょうか。奉仕は、行うばかりではなく、受けることも奉仕だと心得て、教会ではみんなが奉仕するのと共にみんなが奉仕を受けるものなのですから、みんなが神様からの一方的な恵みを与えられているのですから、その様に、体外に奉仕しあうのが、キリストのからだ成る教会と結ばれる事と繋がり、真の礼拝となるのです。

 

 

 

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